お彼岸を過ぎ、名古屋にも桜の便りが届いています。
先日の22日は母の命日でした。
3年前のあの日、とるものもとりあえず朝いちばんに郷里に向かい、母が搬送された病院に駆けつけました。
名古屋を出て岡山の病院に着いたのが、確か10時半近くではなかったでしょうか。
私が着いて間もなく、11時11分覚えやすくも私に縁のある数字のその時、母は潔く旅立ったのでした。
前夜からすでに、こん睡状態で、意思疎通はできなくなっていました。
あの時私は、かけつけてくださった親戚への対応や、前日の様子を聞いたりを優先してしまい、
母のそばにただ共にいることをおろそかにしてしまったのです。
意識はなくても、話しかければ声は届いていたかもしれない、身体をさすれ心地よさを感じたかもしれない、
手を握り続ければ安心したかもしれない。
より安心の中で母を旅立たせてあげることができたのではないかと思うのです。
どうしてあの時そうしなかったのか・・。
今でもわずかに心が痛みます。
特に「手を握る」ことの安心感については、それまでに私自身が何度か経験したことがあり、その確かさは
知っていたはずなのに・・・。
私が娘を出産したときのエピソードですが、急きょ予定していた通常分娩から、帝王切開になりました。
このままでは母子ともに危険ということで、一分一秒を争う突然の手術でした。
その時、術中「ただ私の手を握る」だけのために一人の看護師さんが配置されたのです。
突然の手術に不安の渦巻く中、温かく手を握られ続けた私は、どれだけ心強くて、救われたか・・。
心をしっかり保つことができた私の状態は、きっと赤ちゃんにも伝わったことでしょう。
娘は元気に生まれてくることができました。
また、父が仕事の事故で手に大けがをおったことがありました。
指を3本も失い、長時間の手術を受けて、その晩は私が病院に付き添いました。
夜中ベッドの傍らに付き添っていた私に、父は「手を握っていてくれ」と頼むのです。
言われるままにしばらく手を握り、そのうち離します。
そうすると、またそろそろと手をこちらに出してきて、「手を握ってくれ」と。
一晩中それの繰り返しでした。
指を失ったショックや術後の痛み、事故の瞬間の恐怖などが父の中で湧き上がり、
人に手を握ってもらうことによってなんとか苦しい時間を耐えたのだと思います。
「手を握る」というシンプルなことですが、大きな力になることを実感した体験です。
人は人で癒やされる・・・。力を得る・・。
言葉はなくても、手のぬくもりや優しさは大きなパワーを送るのだと私は感じています。
「手を握る」というシンプルな行為。
きっと届きますよ!!