サンタクロース

メリークリスマス!

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サンタクロースが一番忙しい日ですね。

プレゼントを心待ちにしている子供たちにとっては、一年中で一番、ワクワク、ソワソワ悩ましい日。

ほんとにサンタさん来てくれるかな・・

 

うちの娘も小学生の頃まで、サンタさんに手紙を書いてツリーにさげていました。

‘’サンタさん、匂いつきペンをください‘‘とか。

(ぺ、ペンでいいの(*_*;??)

そしてクリスマスの朝起きると、真っ先に窓辺にとんでいったものでした。

 

そんな彼女が確か小学4年生の頃のことです。

サンタクロースってホントにいるの??

初めて疑いを持ったのです。

友達の中でそんな話が持ち上がったのですね。

サンタさんを信じ切っていた彼女にとって、サンタさんがいないかもしれないなんて大ショック。

不信感いっぱいに、何度も聞いてくる娘の前で、困ってしまいました。

 

とっさに、以前本で読んだイギリスの男の子の話を思い出し、娘に話しました。

その男の子もあるとき、「サンタクロースってホントにいるの・・?」信じられなくなったのです。

クリスマスの朝、男の子のもとにプレゼントは届いていませんでした。

やっぱり、サンタクロースなんていないんだ・・

それともサンタクロースがいないって思ったから来てくれなかったのかな・・。

その時、がっかりと打ちひしがれているその子の家のチャイムがなりました。

ドアをあけるとプレゼントを抱えた、迫力あるサンタクロースが立っていたのです。

男の子は夢のような気持ちでプレゼントを受け取りました。

そしてサンタクロースは次に、男の子のお父さんに向かって言ったのです。

「やあ、久しぶりだね。会えて嬉しいよ。私は君がちょうどこの子ぐらいの時のことをよく覚えているよ。」

 

それだけの話ですが、その話をしたとたん娘の顔がパッと輝きました。

「やっぱりサンタさんいるんだ!今の話でやっぱりサンタさんがいるってわかった!」

私もも何とか窮地を切り抜けてホッとしたことでした。

 

それにしてもイギリスのサンタクロース、素敵ですね。

夢を大事にする、全体のお国柄を感じます。

 

さて時は過ぎ、高校生になった娘。

ちゃっかりと実益優先、いまだにサンタクロースを信じているフリをしています。

どうしたものでしょうね・・・

 

 

 

 

 

2016年12月24日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

伊勢神宮にお参り

いとこ同士3人で、伊勢神宮にお参りしました。

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内宮の参道の途中、五十鈴川のほとりです。

何度訪れても、やはりここは特別な場所、という感じに包まれます。

 

いとこの一人はわざわざ広島から。

何十年もゆっくり会うことのなかった従弟と、転勤で名古屋在住の従妹、3人で思いがけない楽しい一日でした。

伊勢神宮が初めてという従弟が誘ってくれたのですが、私自身ちょうどお参りの一つもしたい時で、いいタイミング。

ルーツで繋がる3人が、それぞれの願い事を心に秘めて一緒にお参りできたことも、意味があるような気がしています。

 

いつからか、神社に惹かれるようになりました。

鳥居の奥にただよう神聖な気、参道を覆うように広がる杜、千木がそびえるお社の独特なたたずまい、神主さんや

巫女さんの装束、そんな世界になぜか惹かれます。

多くの神社に急な石段があったり、長い参道があったり。

神社にお参りするのは、俗世から結界を超えて神域へ、そんな非日常な体験ができるということなのでしょうか。

 

自宅の近くに、白山神社と稲荷神社、二つ神社があり、一本の通りで繋がっています。(勝手に神社通りと呼んでいる)

実家の裏山は、荒神様という神社が祀ってありました。

そこでは祭りの催しで、夜神楽があり、スサノオの尊がヤマタノオロチを退治する場面など、子供心にも魂が揺れる

ような体験だったと思い返します。

 

そういえば、物心ついて初めてふれた絵本は「ヤマタノオロチ」と「因幡のしろうさぎ」でした。

「ヤマタノオロチ」の赤黒いおどろおどろしい表紙絵が印象に残っています。

(おまけにびりびりと表紙が破れ一層の迫力だった)

神話も現代に通じるものがあって面白いな~と思います。

今起こってることって、神話のあの場面みたい!って思うことあります。

 

ここ10年くらい、神社にまつわる夢もよくみるんですよね。

神社と縁があるのかなと思ったりしています。

 

2016年12月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

野生に目覚める?

娘の通う学校の、早朝座禅に参加して戻ると、庭のバラが出迎えてくれました。

雨の中、ただただ咲いている。

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植えた当初は、「バラの肥料」などを買ってきて、定期的にせっせと与えました。

肥料効果もあってか、牡丹のような大輪の花をたくさん咲かせていました。

豪華で目立つので、道行く人が「きれいですね」と声をかけてくださったりしました。

 

が、そのうち肥料をやめてしまいました。

ものぐさな性格もありますが、肥料を過剰に与えたバラがしんどそうに見えたのです。

頑張って頑張って、茎で支えきれないほどの大きな花を咲かせている。

 

咲いているというよりも、咲かされているのではないか。

本当の姿ではないような気がしました。

 

肥料をやめて花の数は減り、大きさも小さくなりました。

でも好きな時に、きままに元気に咲いています。

野性が目覚めたかのように。

今日の雨も楽しむかのように、元気に咲いています。

 

知り合いの方の胡蝶蘭は毎年、元気に花を咲かせるそうです。

コツは何もしないのだそう。

時々水をやるだけで、肥料もなし。

 

野生にゆだねてみると、本来の自分の力がムクムクと湧いてくるのかもしれません。

 

dsc_0181 座禅の後のお楽しみ・・(*’▽’)

 

2016年11月19日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

イチゴ 塀の外へ

朝、みつけて嬉しくなりました。

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塀の隙間から、外の世界に顔を出したイチゴ。

元の苗は塀の内側、2~3メートル離れた日陰です。

本能の赴くままに、つるを伸ばしに伸ばし、明るい太陽の下に出てきたのですね。

 

人も本来、これくらい自由なはず。

決められた場所で、この家のイチゴらしくお行儀よくしなくたっていい。

知らず知らず自分を抑え続けているうちに、本当の自分を見失ってしまいます。

 

ヒューマニスティック心理学のベースには、人間の本質への信頼があります。

「人間は自らの可能性を最大限に発揮させようとする創造的な存在」ととらえます。

どんな環境にあっても、生きようとする、自分らしさを表現しながら、成長を続ける。

イチゴであれ、人であれ、生命体の自然な姿だと思います。

 

それなのに・・・

生きていても仕方がない、生きていく気力がない、そんな思いを訴える方が増えているように思います。

なぜ・・・

 

今までの人生で受けてきた、大人や社会からの勝手な評価、価値観、傷つき。

その中で生きていくために、自ら作りあげた世界。

いつのまにか、本来の自分とずれた個性を演じてはいないでしょうか。

 

そろそろ、不要なものをきれいさっぱり空のかなたにほうりなげて、シンプルにいきましょう。

まだまだ人生は続きます。

 

イチゴの実、なったら嬉しいな。

 

2016年11月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

話すこと 聴くこと

「こんな愚痴みたいな話になってしまって・・・」

相談者の方からこんな言葉が出てくることがあります。

結局、自分も周りも変わらないのではないか・・・

こうやって話すことに意味があるのだろうか・・・

 

こちらも「いえいえ、そのうち必ず変化がありますから」など安易なことは言えません。

人や現象が変わるのはそう簡単なことではない。

 

でも・・・

「いつか波が来る」ことを、愚直に信じていることは確かです。

必ず、いつか動く・・

その「波」を共に起こせる媒体になりきれるかどうか。

 

「 話すこと 聴くこと」

このシンプルな作業の奥深さを感じています。

 

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オリーブの実

二年ぶりに一つだけ実った。気まぐれですね・・・

 

2016年10月27日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

できた!

やっとできた・・・

この日を迎えるなんて・・・

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1000ピースのジクソーパズル。

思えば長い道のりでした。

 

もともと5年ほど前、子供が小学生の時にやりはじめたものです。

最初は一人で・・時々はお友達と・・コツコツとやっていたときはよかった。

が・・・

ムーミンたち登場人物(?)ができたころから、すっかり製作が止まり、部屋を占領するだけの板と化していました。

ただの板なら、立てかけて部屋の隅や押し入れに移動することもできる・・・けれどもこれは製作途中のパズルです。

そのまま平らに保管しておくしかない。

狭い部屋をいたずらに占領しているのをみるストレス、掃除の度、ピースを動かさないよう、そっと移動する

ストレス。

 

「早くなんとかして!!」

この4~5年間、何度子供にむかって言ってきたかわかりません。

 

それでも、仕上げる気配がまるでない・・・

「えーい、もう崩してしまえ・・」

ついに先日、手をかけようとしたその時、ムーミンと目が合ってしまったのです。

 

はたと私の手は止まり、ムーミンやミー、スナフキンをあらためてみました。

やっぱり崩すのはしのびない・・少しずつでも私が作っていこう。

こうしてやり始めたのですが、肩は凝る、腰は痛い、寝不足になる・・

 

けれども、それにもまして、ピースがぴたりとはまり、だんだんと世界が完成していく喜び。

ひたすらピースを探す、はめる、この単純作業がこんなにも楽しく感じるとは・・・

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手がかりのほとんどない背景の製作、どれも同じに見えるピース、思うようにはかどらない、ストレスがたまりそうな

ものですが、意外にも大丈夫なのです。

それどころか、時間を作ってでも続きをやりたくなってくる。

絵柄にも癒されたのかもしれません。

 

製作中、心が脳が、喜んでいるのを感じました。

うーん・・ジクソーパズル、奥が深いですぞ。

 

2016年10月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

本の紹介「思い出のマーニー」

イギリスの児童文学

思い出のマーニー[新訳]  ジョーン・G・ロビンソン著

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初めて読みましたが、思った以上によかったです。

 

心を閉ざし、周囲になじめない少女「アンナ」

心の問題があると医者に判断され、転地療養のため海辺の田舎町で過ごすことになります。

アンナはその町の入り江にある、湿地屋敷になぜか心を惹かれます。

そしてそのお屋敷に住む不思議な少女「マーニー」と出会い、ひと夏の交流がはじまる・・・

 

不思議な少女「マーニー」はいったい何者・・? 幻想・・? 現実・・?

意味深なヒントもちりばめられているようでもあり・・とても引きつけられます。

どちらにしろ、マーニーに出会ったアンナの心の奥深いところで変化が始まり、アンナはたくましく再生していくのです。

自分を見捨て死んでしまった、と思っていた家族が、大きな存在感で現れている物語。

 

時空を超えた家族のつながりがロマンティックです。

死者となった家族の愛に導かれ、閉ざされた心が開かれ始める・・。

同時に、現実世界の温かい人たち愛に支えられ、元気になっていくアンナがとてもいきいきと描かれています。

 

背景もいいですね。

海、入り江、小舟、嵐、風車小屋。

無意識を象徴するようなこれらのものが、幻想性を高め、アンナの深い体験を暗示しています。

 

児童文学とはいえ、この年で読んだからこその、味わいや発見が多くありました。

またいつか、読み返したい本です。

2016年9月26日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

さなぎの時代

幼い頃、祖母が繰り返し繰り返し、話してくれた昔話があります。

「ぐうたらべえちゃん」

これは祖母の創作話だったのか、それともこういう昔話が存在するのか・・・

いまだに謎です。

 

お話の内容は・・・

むかしむかしあるところに、「ぐうたらべえちゃん」という怠け者の若者がいた。

一人でくらしていたが、働くことはなく、来る日も来る日も一日中ぐうたら寝て過ごしていた。

村人たちはそんな「ぐうたらべえちゃん」を怠け者とバカにしていた。

ある日「ぐうたらべえちゃん」のところに、豆粒ほどの小さな者が、しばらく泊めてくれと尋ねてきた。

快く泊めると、あくる朝、その者はウリほどの大きさに・・・

その次の日は両手で抱えるほどの大きさに・・・

どんどん大きくなって、とうとう家いっぱいの大きさになってしまった。

自分の居場所がなくなった「ぐうたらべえちゃん」は仕方なく起きて、隣に新しい自分の家を建てた。

その家があまりにもりっぱだったので、村人たちは次々と家を建ててくれと頼むようになった。

こうして寝てばかりだった「ぐうたらべえちゃん」は、いつのまにか働き者の立派な若者になっていた。

 

日本昔話には「三年寝太郎」というお話があります。

寝てばかりの怠け者の若者が、ある日行動を起こし、日照り続きで水がなく苦しんでいた、村の窮地を救う。

寝てばかりの歳月は、実は能力を開花させるための思索の日々だった、というお話です。

 

「さなぎの時代」とは心理療法家の河合隼雄さんが使われた言葉です。

確か、そんなことが書かれていた本があったな・・・

本棚を探していたらありました。

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「なるほどの対話」 河合隼雄さんと吉本ばななさんの対談集です。

吉本ばななさんも高校3年間寝てばかりだったと述懐されています。

 

先の「ぐうたらべえちゃん」も「三年寝太郎」もさなぎの時代がテーマのお話だと思います。

内に閉じこもる期間が、実はとても意味のある時間だった。

 

ただ寝てばかりで怠けているようにみえても、内面で大きな変化が起きていることがあります。

さなぎの中で蝶になって飛び立つ準備が進んでいるように。

 

人は大なり小なり、いろいろな形でさなぎの時代があるのではないかと思います。

周りの大人は、ほおっておいていいのか、手を出したほうがいいのか、でもどのように・・・

答えのない、とてもとても難しいことです。

ただ、すぐ結果を求めてさなぎの時代を邪魔することだけは避けたいものです。

蝶になりそびれた蝶は死んでしまうか、片翅で不自由に飛び続けることになりかねません。

 

最近、うちの娘もびっくりするほど寝てばかり。

もしかして「さなぎの時代」なのかも知れません。

 

2016年9月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

茂平のイチジク

イチジクが届きました。

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実家の畑でとれたものです。

実家のある「茂平」という小さな集落は、昔からイチジクの栽培がさかんでした。

雨が少なく温暖でそれはそれは美味しいイチジクがとれます。

今は高齢化で生産者の方も減っているようですが、それでも帰省してイチジク畑が広がる景色を目にすると、「あ

あ、茂平に帰ったな」と思います。

 

子供の頃、イチジクの季節になると、祖父母や母は、朝暗いうちから収穫、出荷作業に追われていました。

一つずつ丁寧に手で収穫、とってもとってもきりがない、朝収穫しても、夕方にはまた次々と熟れているのです。

肩にかけたカゴが次第に重みできりきりと食い込む、汗だくになりながら、畑を飛び回り、木に登り・・・

 

作業小屋に帰ると、休む間もなく、出荷作業が待っています。

私などは、たまに手伝ってもすぐ根を上げ、猫の手にもならなっかたように思います。

それは二か月近く続く重労働でした。

 

出荷の合間には、親戚の方、知り合いの方、多くの人が入れ替わり立ち代わり、イチジク狩りに来られました。

村の農業組合は出荷する生産者で溢れ、わが田舎が一番活気づく季節だったなと、懐かしく思い出します。

 

子供の頃は、そんなに好きでもなかったイチジクですが、故郷を離れた今、食べるイチジクは格別です。

まさに、慣れ親しんだ「茂平」の味

故郷の人々が忙しくリヤカーで出荷する姿、活気あふれる組合の様子、子供の頃の懐かしい情景が蘇ってきます

 

届いた日は偶然、亡くなった母の誕生日でした。

「暑いけど、ま、これでも食べて元気出して!!」

母の想いものせて届いたのかな・・・

 

2016年9月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

虫の知らせ

飼っているアカヒレが、一匹死んでしまいました。

ヒレアカ

おとといの晩に底にうずくまるようにじっとしている一匹をみつけ、気になったのですが、餌を与えると浮き上

がって食べ始めたので、ほっとしていました。

ところが昨日の朝、底に横たわって死んでいました。

 

その日の夜のこと、夫の叔父が亡くなったという知らせがありました。

3か月前、「近くに来たから・・」と我が家に寄ってくださったばかりだったのですが。

今思うと、最後のお別れに来られたのかもしれません。

一緒にいたご家族が、「そろそろ失礼しましょう」と何度も促されるのに、話のつきないご様子でした。

 

アカヒレの死は、虫の知らせだったのかなと思います。

 

虫の知らせ・・。

誰かの死などに関して、知らせを受ける前に何かを感じ取る第六感のようなもの。

多くの人が経験しているようです。

夢、胸騒ぎ、体の不調、生き物などを通じて。

 

私も何度もそういう経験があります。

昨年のこと、父方の叔父が亡くなる夢を見た日の翌日、その叔父は亡くなりました。

母が亡くなったときも、暗示するような夢をみました。

また母方の伯父が亡くなったときは、出かける予定があるのに、突然おなかが痛くなり、ぐずぐずしているところ

に、訃報の電話がはいりました。

他にもいろいろあります。

 

そしてもう一つ思うこと・・・

おととい亡くなった叔父は、死の前に訪れることで、我が家の「負」も一緒に持っていってくださったのかも知れ

ません。

人は亡くなるとき周りの人の「負」を代わりに背負う役目もあるのでは・・という気がするのです。

「死」とは一世一代の大きな仕事です。

 

2016年8月31日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room