子供の心は

ある女優さんが、まだ幼い息子さんとTVのトーク番組に出ていらっしゃいました。

 

司会者が、ある出来事について男の子に質問します。

「あの時どう思ったの?」

すると、間髪おかず、お母さんが代わりに答えます。

「大変だったわよねえ、でも楽しかったでしょ」

男の子は微妙な表情。

 

司会者が男の子にプレゼントを渡すと、お母さんがすかさず、「ありがとうは?」

男の子は、オウムのように「ありがと・・」

男の子の中から、自分の言葉が出てくる前に。(必ずしも言葉ではないかもしれないけど)

その後もお母さんと司会者の間で、一見子供中心、でも子供の心は置き去りのハイなトークは続きます。

 

僕を抜きにして大人が話してる。なのに、ここでの主役は僕になっているらしい・・・

男の子の微妙な表情は、何を伝えたかったのでしょう。

 

いつか、レストランの待ち時間に見た光景。

友達にオモチャを貸してあげたくない男の子。

するとお母さんがオモチャを取り上げ、代わりに友達に「どうぞ」

男の子は、顔を伏せて耐えていました。

 

一緒にいた娘が「あれはダメだよ・・」とぽつり。

私も同じ想い。

大人だって人に貸したくないもの、貸したくない時、いろいろありますよね。

男の子が抑え込んでしまったエネルギーは心の負荷の一つとなってしまいます。

心の負荷はできるだけない方がいい。

人生の重荷になってしまうから。

 

親は自分や世間のルールよりも、子供の心を守るべき時があるように思います。

肝心な時守られた心は、こだわりなく、健全に成長していくものだと思います。

 

大人になっても苦手なことをひもといていくと、幼い時の体験に行き当たることがあります。

挨拶が苦手な人は、幼い頃無理やり挨拶をさせられた経験があったりなど。

大人が思っている以上に、子供の心に根を深く張ってしまうことだってあるのです。

かくいう私も、自分のルールに従って、子供の心を置き去りにしてしまった経験がいくつもあるのですが・・。

 

子供にはその子の”今”があること、大人はもっと知らなければ・・・!

そしてそのピュアな世界を追体験することができるのも、周りの大人の特権ですね!

 

  お日様いっぱい浴びて・・  庭でとれたイチゴ

 

 

今日は祖父の命日

お天気に恵まれ、気持ちの良いゴールデンウイークですね。

 

今日は、父方の祖父の命日です。

亡くなって30年。

30年前、ゴールデンウイーク前に急に容体が悪くなったため、急きょ旅行をキャンセルしたことを思い出します。

 

祖父は、自分の信念に従って、周りに左右されることなくシンプルに生きた人ではないかと思います。

家族の中でも孤高の雰囲気を漂わせ、子供心にも近寄りがたい感じがありました。

きりりとした横顔は鷲か鷹を思わせました。

 

けれども晩年、私が成人するころからか次第に雰囲気が柔らかく・・・

距離がだんだん近くなり、ニコニコとお小遣いをくれたり、私が話し相手になることが、増えていきました。

今の私の記憶には、晩年の優しい声と話しぶりが一番残っています。

 

祖父と二人で、出かけた思い出が記憶の中では2回あります。

一回はまだ私が5歳頃のこと。

クリスマスツリーにする木を、近くの山に探しに行きました。

おじいちゃんとクリスマスツリーの木を探しにいく!!

ワクワクしながら、ついていきました。

”絵本に出てくるような、堂々とした木”を担いで帰る姿を想像しながら・・・

ところが山の入り口をほんの少し入ったあたりで、「おお、いいのがあった」祖父はあっさりと木を選びました。

私の理想にはほど遠い、ヒョロヒョロと頼りない、形もアンバランスな木・・

絵本に出てくるようなツリーゲットの夢は、あっという間に終わったのでした。

 

もう一つの一緒に出掛けた思い出は、私が大学生の時。

祖父の早世した弟の家族を久方ぶりに訪ねることになり、私が祖父に同行したのです。

二人で電車に乗り、のどかな小旅行。

訪問を終えるころ、祖父は急に思いついたのか、弟のお嫁さん(といっても既におばあさんでしたが)に一緒に我が家に遊びに来るよう誘いました。

帰りは思いがけず3人の道中。

ずっと疎遠だったその家族、とりわけ弟のお嫁さんに、祖父の温かい気持ちを感じました。

洗練されたその方から得るものは多く、私にとっては大切な出会いでした。

 

厳しく頑固な面が主に表に出ていた祖父ですが、内面は粋で、やさしさを秘めていたことが、今になってわかります。

生きていた時以上に、その存在を近くに感じています。

 

 

ハゴロモジャスミン咲き始めました。