ジェノグラムの体験

先日「死別を体験した家族を支える」というテーマの、福祉関係職員さん向けの研修に参加しました。

その中の演習で、ジェノグラムが取り上げられました。

 ※写真のジェノグラムは架空の家族です

 

ジェノグラムとは簡単に言えば家系図ですが、個々の年齢、病気や生死、家族の関係性や過去の出来事など様々な情報を書き込みます。

私も、家族療法を学んでいた8年前に、初めて自分のジェノグラムを描いたのですが、この体験はとても貴重なものでした。

 

5世代にわたるジェノグラムに、知りうる限りの情報を書き込み、ほぼ完成。

最後に、わずかに躊躇しつつも、生まれる前に亡くなった私の兄弟の存在を図で書き込みました。

 

その瞬間、思いがけない感覚に全身が包まれたのです。

彼が(もしくは彼女が)私の味方であり、今もそばにいるという確信。そして安心感。

予期しないスピリチュアルな感覚でした。

生まれてくることのできなかった兄弟のことは、それまでどこかで私の心に影を落としていたのだと思います。

亡くなって尚、今もそばにいてくれる、しかも味方なんだ。

そう実感できたことは、その後の私に大きな力を与えてくれています。

 

人を支えるのは、今生きている人ばかりではない。

カウンセラーとして関わらせて頂く多くのケースからも、強くそう感じます。

お話を聴く中で、クライエントさんが亡くなった人から、愛を与えられ続けていると実感する瞬間があります。

過去の大切な人のことを語る、その存在やつながりを感じる、それらのことがなぜか、今を生きる人の大きな力になっていくのです。

不思議ですね。

 

ジェノグラムは、歴史的な視点を持って、関係性を分かりやすく図示できるため、家族の全体像を把握できます。

それにより「その家族特有の在り方を理解しながら解決の姿を探ることができる」と家族療法では主に理解されています。

でもそれだけではない。

 

ジェノグラムから、じわっと立ち上がってくるものがある。

まるで、閉ざされていたものがとけて、ふいに意思を持って現れてくるような、何かしらの現象が起る可能性。

そんな面も、私はジェノグラムに感じているのです。

 

名古屋駅 ツインタワー下

 

 

 

 

食卓の光景

昨日はカウンセリングの研究会でした。

事例検討をしているとき、家族の「食卓の光景」の話になりました。

 

居合わせたカウンセラー、幼い頃の食卓の思い出はさまざまです。

ある方は「そもそもみんなで食べてなかった、私はいつも個食だった」

またある方は「食事中いつも私だけ親に怒られて、勝手口から外によく引きずりだされた」

みなさん、なかなかのつわものです。

 

私も幼い頃の食卓の場面は強く印象に残っています。

一言でいうと、ご飯の時の父が怖い。

父がお酒を飲みながら、他の家族をけなし、攻撃することがしばしば。

そのターゲットは、ある時は祖母、ある時は兄、あるときは母、結婚前の叔母たち、時には父親である祖父さえも。

そのしつこい攻撃により、食卓の雰囲気はたちまち最悪なものとなったものです。

父に歯向かう者はなく、ひたすら嵐の通り過ぎるのを待つパターンでした。

 

食卓の光景は、その家族の特徴を象徴するような場面となっていることがあります。

現に私の家族の場合、食卓以外の場面でも、同じ構図で動いていました。

家族の中の力関係は、特に父の圧力が強かった。

みんなそれに反発するのでなく、避けて通ろうとしていたように思います。

家族の大切な行事でも、父の不在はかえって幸い、面倒な鬼のいぬ間にやってしまおうといった雰囲気がありました。

 

私もそうであったように「家族が集まり食事をする」という本来楽しいはずの場面が、ネガティブな思い出になっていることは少なくありません。

特に、耐えるしかすべを知らなかった子供にとっては。

実際には辛い食卓よりも、楽しい食卓の方が、その数倍あったのかもしれないのに。

後に、カウンセラーになるための教育分析(カウンセラー自身が自己を統合するためにカウンセリングを受けること)の初回で、幼い頃の食卓のことを早々に語ることになります。

兄が理不尽に怒られている横で、一緒に泣いたこと、涙でしょっぱいご飯の味、それが自分にとってどんな体験だったか。

 

「過去の事」と片づけずに、体験を語ること、心の力を回復するうえで、とても大切ではないかと思います。

人の心はたくましいものです。

 

さて、みなさんの幼い頃の食卓の光景は、どんなものだったのでしょう・・。

 

ちなみに父は、今ではすっかり穏やかな人となりました。

庭のエゴノキにモズの早贄を見つけました。

トカゲよ、写真に撮ってごめん。

 

早贄→鳥のモズ類が捕えた獲物を樹木のとがった枝など鋭利な物に突き刺しておく習性

 

 

京都の一日

晩秋の一日を京都で遊んできました。

 

アラフィフ女子3人、行き当たりばったりの一日。

京都駅のバスターミナルで、「うーん、どこ行くう~?」と悩む無計画ぶりです。

 

「じゃ、まずは金閣寺でも・・」と、一人がなんとなく発案。

「そだね、そだね」

「じゃ、つぎは金閣寺に近い、龍安寺の石庭だー」

「うん、うん、それがいい!」

 

3分後には金閣寺方面行のバスに乗っていました。

金閣寺の不動堂には、家内安全だの交通安全だの、学業成就だのと記された願掛けのろうそくをおいてあり、一本50円で求め、火を灯してお供えすることができます。

友人二人は迷わず「ストレス封じ」と黒々と書かれたろうそくを選び、私は一番オールマイティっぽい「心願成就」を選んで、手を合わせたのでした。

 

金閣寺から、きぬかけの路をのんびり歩き、龍安寺へ。

石庭を眺めて、しばし心の静かさを感じるひと時・・

 

お昼は龍安寺境内にある西源院で「湯豆腐付き精進料理」を頂きました。

お堀のあるお庭を眺めながらのお食事に期待が高まります。

そして運ばれてきた温かい湯豆腐!今日のような冷える日にありがたや~

ところが、この湯豆腐がどんどん冷めていく・・・

炭で温める鉢の上に鍋をセットされたにもかかわらず、なぜか火をつけてもらえない。

開け放ったお座敷には容赦なく寒風が吹きこみ、湯豆腐はどんどん冷めていく、外気にさらされた身体もどんどん冷えていく。

互いに励まし、手をこすり合わせながらのランチタイムとなったのでした。

ま、お寺ですからね、お食事も「修行」だったのかもしれませんね。

 

さてさて、次はどこにしましょう。

とりあえず京都駅方面行のバスに乗り、良さそうなところがあれば途中下車しようということに。

四条河原町で下車しました。

バスに乗り換えて祇園あたりに行こうかとも思ったのですが、ちょっとゆっくりコーヒーもいいね、となりました。

高島屋に入って、各階をめぐって良さそうなカフェ探し。

これがなかなか見つからず、高島屋の中をカフェ難民になって20~30分うろうろ。

こんなたわいのないこともなぜか楽しい!!

6店目くらいにやっといい感じのお店を見つけることができました。

暮れ行く外の景色を眺め、語りながら、ゆっくりコーヒーを飲む幸せなひと時。

 

京都駅に戻った時にはすっかり日が落ちていました。

 

満月の下に幻想的な雲、月に帰っていく「かぐや姫」が乗っているかのようです。

夜8時過ぎ、私たちも新幹線に乗り、それぞれの家に帰っていったのでした。

 

 

 

 

映画を二本

映画を二本、映画館をはしごしてみてきました。

「日日是好日」と「ハナレイベイ」

 

「日日・・」は友人に薦められました。

「絶対あなたに合っている、理屈じゃなく感じる映画だから」と。

なるほど・・みているこちらも場面を体感する仕掛けもありました。

 

一人のの女性が大学時代に茶道に出会い、日常のあれこれと合わせて、人生を深めていく日々が描かれています。

思考を離れ、今この時をただ感じていること、この瞬間に自分のすべてでコミットしていることの大切さを語りかけてくる作品でした。

なのに鑑賞中、つい思考につかまって肝心なセリフを聞き逃した私、頭が別のところに瞬間移動してしまったのですね。

まだまだです。

 

 

「ハナレイベイ」は、映画化されたと知って、とてもみたかった映画。

原作は村上春樹さんの「東京奇譚集」という短篇集の中の一つで、サーファーの息子がハワイでサメに襲われ亡くなる、その母が息子の死に向き合っていく姿を描いた小説。

その短編集の中でも、特に印象に残っていたものでした。

 

原作は、感情の描写がほとんどなく、行動、出来事がたんたんと描写されていく中で、読み手の感性にゆだねられている結果、深く味わえる小説ではないかと思います。

映画は人が演じる分、原作の乾いた感じよりも、少々ウエットな感がありました。

主演の吉田羊さんをはじめ、キャスティングが良く、映画は映画で楽しめました。

 

 

映画は一人で行くのが好きです。

自分のペースでみれる。

 

あまりピンと来ない映画だったな~・・ってこともありますが、それはそれで。

いつもいつも感動やら、自分に役立ったとか求めると、ちょっと不自由ですよね。

「今日はこれをみた」だけでいい。

でも話題が出たときに、「私もみたー」と言えるのはいいかな。

 

 

 

今までとちょっと違うこと

「今までとちょっと違うこと」がマイブームです。

ささやかなレベルですが。

 

例えば先日のこと、久しぶりに洋服を買いに街に出かけました。

いつもなら、車で某デパートのSサイズ売り場に直行するのですが、「今日は違うエリアに行ってみよう」と電車に乗って名古屋駅界隈に足を延ばしました。

いつもはヒールの靴ですが、いっぱい歩くのを覚悟してペタンコ靴にパンツの軽装。

疲れ知らずでいくらでもサクサク歩けるので、気分も軽いです。

 

最初に立ち寄ったデパートでは思いがけず「Sサイズの祭典」というのををやっていて、60のブランドでSサイズの洋服が店頭に出ていたのでした(しかも初日という幸運)

こんなにたくさんのブランドでSサイズが作られていたなんて・・・

いつもサイズ探しにに苦労する私、嬉しい発見でした。

初めてのお店、若く可愛い店員さん、ジャストサイズの買い物、なんだか嬉しい。

 

気分もあがり、足も痛くないぞ、まだまだ歩ける。

昨年オープンのまだ行けてなかった商業施設を見て回り、新しいカフェで大きな大きなチーズケーキを食べ(大きすぎて私の胃にはおさまりきらなかった・・)本屋さんで面白そうな本を買い、満足して帰途についたのでした。

 

「今までとちょっと違うこと」いろいろやってみてます。

今まで読んだことのない作家さんたちの本を買ってみる。

初めて御園座に行って、歌舞伎を見た。

行ったことのないお店で買い物をしてみる・・などなど・・

今度は映画館も新しいところに行ってみようかな。

 

習慣化された自分の世界がちょっと広がり、ワクワク感や、新しい発見がある。

フレッシュなエネルギーが入ってくるような気がしてます。

 

 

ワッ!! シーサー ビックリ

ショウリョウバッタ ひと休み

 

 

 

 

 

 

 

ハチは怖い?

朝起きると、庭の端っこの一本の木が、一枚の葉もなく丸坊主になっていました。

蛾の幼虫の仕業みたいです。

すごい食欲・・(‘Д’)

 

先日友人たちとのおしゃべりで、苦手な虫は何? という話になりました。

ゴキブリが苦手、蜘蛛が嫌い、過去の具体的エピソードとともにどんどん出てきます。

そして最後にハチの話になりました。

「ハチはやっぱ一番怖いわ~、向かってくるよね~、家族が刺されて大変だった・・」

みんな口々にハチの怖さを語ります。

「ハチをみたら、逃げる!!」

「そうよ、そうよ、とにかく逃げる!」

「刺されたらトラウマになるよね」

とみんなが大きくうなずく中、おもむろに口を開いた私。

 

子供の頃、ハチに刺された数々の武勇伝を披露したのでした。

 

小学生の頃、松茸狩りに行った山でふくらはぎをスズメバチに刺された。(足が2倍くらいに腫れたが、手当もせずに自然治癒。今でも傷跡が残っている)

あんずの花に群がるミツバチを、ウイスキーの空き瓶で捕獲していたら、瓶のアルコール分のせいでミツバチがふらふらになったので油断してさわったら、刺された。

学校帰りに、アシナガバチの巣をみつけ、巣をめがけて石を投げて一目散に逃げたが、追い付かれて刺された。

家の窓からアシナガバチの巣をめがけて石を投げ、シャッと窓をしめたが、瞬間ハチが家の中に入ってきていて刺された。

 

何度刺されても懲りない子供ですね。

好奇心の方が勝っていたのか・・・

 

友人たちにとってはありえない話だったみたいで、相当あきれていました。

 

今もハチは怖くないし、そばに威嚇しにきても慌てて逃げたりはしません。

普通にしているとハチも「おみゃー、悪いやつじゃないなさそうだの・・」と、ほどなく離れていくのです。

 

 

故郷のお祭り

子供のころから親しんだお舟様

 

 

 

 

恐山のちょっと不思議な記憶

朝日新聞掲載の「みちものがたり」で青森県の恐山の記事を目にしました。

そうそう、こんなところだった。

30年前、東北一人旅の途中、ふと思い立って訪れたときの遠い記憶が呼び起こされました。

 

恐山・・

死者が集まるおどろおどろしい場所、異形のものがうごめく異界・・

そんなイメージを当時持っていたと思うので、怖いもの見たさで行ってみたくなったのでしょうね。

それと辺境好きが重なって。

 

何かにいざなわれて行った感じもします。

というのは、ちょっと不思議な体験があったのです。

そう、あった(会った)のですよ。

 

恐山へは、下北半島の付け根、野辺地駅からJR大湊線で1時間、下北駅からバスに乗り換えてさらに小1時間です。

大湊線の電車でのこと、私の座った向かいの席にお婆さんの二人連れが座っていらっしゃいました。

ふと目を上げると、真向いのお婆さんが、亡くなった祖母にとても似ている。

「おばあちゃんだ~」

気になってついついお顔を見るばかりしていたんだと思います。

お婆さんもお連れとのおしゃべりの合間に、時々私をみてにっこり。

いい席に座ったなと、なんとなく嬉しい気分で、今度はバスに乗り換えました。

 

恐山行きのバスを待っていると、50歳位(といっても年齢不詳な)のおじさんが同じバスを待っていらっしゃいました。

見知らぬ人にもどんどん話しかける行動的な方でしたが、なぜか私の事が気になったらしく、何かと世話を焼くのです。

お昼は食べたか?困ったことはないか?・・みたいな調子で。

そして駅のキオスクに走っていったかと思うと、恐山に関する本を2冊買ってきて、一冊を私にくださいました。

その方のお顔が、亡くなった祖父にそっくり。

そっくりは言い過ぎですが、十分に祖父の面影がありました。

「今度はおじいちゃんだ!」

さすがに不思議な感じがしました。

 

人々は死者に会いに恐山に行く、というけれど、そんなつもりはなかった私にもひょっとして・・

たまたまとか偶然、で済ませられるほどのことですが、はるばる一人旅の身にとって温かいものに包まれるような出来事でした。

 

悔やまれるのは、祖父似のおじさんに頂いた本をその日の宿に置いてきてしまったこと。

パラパラっとめくり、あ~難しそう・・と思った私は、誰かが読んでくれることを期待して、宿の本棚にそっと忍ばせたのでした。

今思うと、せっかく頂いた本なのに、何てことしたんだろうと思います。

読みたかったし、持っておきたかった。

 

最期を平穏に

先週末の新聞に、「平穏死」という見慣れない言葉が出ていて、その記事を興味深く読みました。

老人ホームの常勤医の方によるエッセイでしたが、私の父も介護施設でお世話になっているので、身近な問題です。

最近ちょうど私が感じていたことと重なって、共感するものがありました。

(本文より)

『人生の最終章で、医療は不要になるときが来る、人は苦しまずに穏やかになくなっていくようにできている。この「平穏死」こそ、老衰で迎える最後の姿なのではないでしょうか』 

老人ホームの常勤医として、多くの終末期の患者さんやそのご家族と接してこられた経験からの言葉に説得力があります。

 

花が枯れていくように、人も本来、だんだん食べられなくなり動けなくなり、最期を迎えるのは自然な姿かと思います。

その過程にあらがうように、一日に必要とされているカロリーを必死に摂取させ、悪いところがみつかれば、負担の大きい検査、手術などの先進医療を受けさせるのが本当に良いのか。

先のある人への医療とは別の、もっと自然な優しいケアがあるはず。

 

父は今、すっかり食欲がなくなり、身体を動かす気力も萎えてきています。

それを見ていると、かくいう私も、何とか食べさせて元気になってもらいたい、もう一度自力で歩いてほしい、こちら側の思いがでてきます。

リハビリに行っても、気力がなくて、やろうとしない父に「もう一回だけやってみようか」と何とかやらせようとします。

ご飯をあまり食べようとしないので、「もう一口、もう一口」と無理に食べさせたり、ペースト状の食事が口に合わないのではと、せめてご飯だけでもお粥にしてもらえないかと職員さんにお願いしてみたり。

 

何とか食べさせよう、何とかリハビリを頑張らせよう、こちらの思いと要求は父にとってとても負担になったようです。

時折いらだちを見せるようになりました。

 

もしかして無理を押し付けているのかもしれないな・・ふと思いました。

 

からだの自然な流れを感じ取り、受け入れていくことも、ある時期からは大切なのではないか、今はそう思っています。

 

  庭のバラをつみました。秋咲に備えて一度剪定。

 

 

病院へ行く色

今日も名古屋は猛暑日です。

庭のバッタたち、元気にぴょんぴょん跳んでいます。

 

ここ2か月ほどの間、たびたび病院に行く機会がありました。

父の3度の入院、娘の検査の付き添いなど。

病院に行くとき、黒い服、暗い服は着ないようにしています。

 

20年ほど前の話ですが、入院中の大叔母を見舞った時のちょっとした後悔があるからです。

大叔母の入院していた病院は、私の職場のそばだったので、軽い気持ちで仕事帰りに寄ってみたのですね。

病室にはいると、元気で迎えてくれるはずの大叔母は思いもかけず、昏睡状態になっていたのです。

予想していないことでした。

数日前まで元気だったのに急に病状が進んでしまっていたのです。。

付き添っていた大叔母の長女がぽつりと言いました。

「急にこんな風になっちゃった・・せっかく来てくれたのにね」

 

その時の私の服装、グレーのワンピースに黒いブレザーを羽織っていました。

朝仕事に出かけるときに、玄関で見送る母に「お葬式に行ってきます」とふざけて言いました。

自分でもその日の服が、暗くて地味だなと思い、思わず口に出たのですね。

 

その数日後、大叔母は帰らぬ人となりました。

あの時、なんであんな暗い服で行ってしまったんだろう。

縁起を担ぐわけではないけれど、喪を想起するような恰好で行ったことを悔いたのです。

 

とても力になってくれた大叔母でした。

大叔母にとっての実家、私の家のことをいつも気にかけ、必要な時は躊躇なく動いてくれました。

「私とあなたは年も随分違うけど、心はよく通じるのだから、なんでも話してね」

そう電話で伝えてくれた時の声が、今でも耳に残ります。

亡くなって尚、見守ってくれている、力になってくれているという感覚がありますね。

 

話がそれましたが、そんなこともあって、病院に行くときは明るめの服を着ることにしています。

特にお見舞いに行く時などは、目に優しい明るめの色彩の服で。

入院中は不安だったり、思うようにいかなくてイライラすることも多いものです。

目にする色が暗いと、よけい気が滅入ることもあるかと思うのです。

 

 

   今年もお盆の終わりは花火の送り火。コンビニに買いに走りました。

 

 

 

 

父の退院

介護施設に入所している父が腹痛を訴え、それが急を要するものだったので、大病院に緊急搬送されて手術を受けました。

 

先週、術後の父を見舞うため、名古屋から岡山、日帰り予定で急きょ帰省したのでした。

病院に着くと、看護師さんが、開口一番「昨日から調子が悪いんですよ」

ぐったりとベッドに横になっている父、食べてももどしてしまうということで、絶飲食。

一瞬目を開けても、すぐにこんこんと眠ってしまう。

こんな父を残して、日帰りで帰るには忍びないなあと思っていたら、翌日の用事の調整がつき、急きょ実家に一泊して次の日も見舞うこととしました。

翌日にはかなり持ち直し、レントゲンの結果も良好、歩行器でそろそろと歩くほどの回復ぶりで、少し安心して岡山を後にしたのでした。

 

そして昨日、兄から電話がかかり、無事退院して地元の病院に移ったと報告がありました。

兄の声は疲れの中にも、安堵感。

ちょっと驚いたのは、父が兄に手を握ってくれ、と頼み、兄がそれに応えたことを話してくれたことでした。

「ほんま、わがままな弱いヤツや、しょうがないから、布団の上から握ってやったわ」(やれやれと言った感じで)

あの距離のある二人の間に、こんな一瞬があるとは。

 

人が回復する力を助けるものは何だろう・・と思います。

薬や治療だけではないはず。

父は、看護師さんがケアなどで病室にきてくださると、「ああ、よう来てくださった」と本当に嬉しそうに言いました。

話しかけてもらえる、注意を払ってもらえる、人の存在がとても力になったのではと思います。

 

私も二日間でしたが、父の望むまま車いすで病院の廊下を連れ回り、身体をさすり、手を握り(私にもたびたび手を握ってくれと頼んだ)父の訴えに耳を傾けました。

兄も休みの日は、病院に顔を出してくれたようです。

(父は認知症が進むにつれ、とても兄を求めるようになり、息子はいつ来る?と看護師さんに聞くばかりして困らせたらしい)

そして待ちわびた兄の顔をみて、ありえないことに手まで握ってもらったたこと・・・

私はちょっと嬉しい。

 

これからも大変だろうけど、とりあえず今日は感謝。

 

  この酷暑にもバラは咲く