牛に引かれて・・

猛暑が続いています。

 

実家の父が、4週間ほど前に体調を大きく崩し、病院への入院を経て介護施設に入所しました。

今年のこの猛暑、父があのまま家にいたなら、どうなっていただろうと思います。

兄が一緒に住んでいるものの、昼間は一人になるので見守る目がなく、自分でエアコンを使うこともしない人です。

その意味でもぎりぎりのタイミングで施設に入れたことは感謝です。

私も帰省して施設見学などに立ち会いましたが、病院の方、施設の方が、遠方から来ている私の事を考え、仕事の枠を超えて便宜を図ってくださったりなどして、とても助けられました。

父は海が大好きであることを話していたら、海の見えるお部屋を準備してくださったことも嬉しいことでした。

 

離れているので、施設に入ってからの父の様子は兄からの情報だけが頼りです。

「施設でどんな風に過ごしているかな」とか、認知が進んでいると聞くと、「もっと頻繁に帰った方がよいか・・」などといろいろ考えます。

 

そんな中、昨日夢を見ました。

既に亡くなっている母が夢に出てきて、私も一緒にカウンセリングを受けようとしているような夢。

セラピストは今までに会ったことのない、男性セラピスト。

何故か、そばに牛がいて、牛本来の姿からは、ありえないポーズで、こちらに何か伝えようとしているようです。

そこで目が覚めたのですが、とても意味のある夢に思えたので、どういうことかしら・・とちょっと考えてみました。

 

特に牛が出てきたのが印象的な夢。

禅の悟りの境地を表す「牧牛図」、最近本で目にしたので牛が出てきたのか・・

そして「牛に引かれて善光寺参り」ということわざが頭に浮かびました。

意味は、「他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ」だそうです。

今まで会ったことのないセラピスト、ありえないポーズの牛、これらが意味することは何?・・・

ふむふむ、きっと偶然の成り行きや、新しい何かにゆだねていいってことか。

悩んでカウンセリングを受けようとしている私は、一人じゃない、母が一緒です。

亡き母をはじめ大きなものが見守ってくれているということでしょうか。

牛といえば、兄は丑年です。

牛のようにどっしりと強く、道を知っているのかも知れません。

兄に引かれて、私はついて行けば良いのかなと思えたのでした。

 

日々、父の事など考えます。

こうやって夢やら、人やら、偶然やらに助けられながらやっていくのでしょうね。

 

  

毎年ベランダで見かけるカミキリ、庭の木を棲みかにしているよう

 

 

 

 

渦中にいるときの力に

広島、岡山、四国など大雨による各地の被害が甚大です。

私の実家は岡山県なので、多くの身内や知り合いが今回の被災地域に住んでいます。

 

どんな様子か心配で、兄、伯母、主人の実家など、電話をしてみました。

みんな息せき切ったように見聞きしたことを話してくれました。

それぞれ親戚や知り合いに甚大な被害を受けている方がいるのです。

それは自身の心にもいたたまれないような感覚を呼び起こし、誰かに話さずにはいられないのです。

また、自分の家は無事だったものの、この数日恐ろしいように降り続く雨の中、近くの用水路が氾濫するのではないか、裏山が崩れるのではないか、など本当に心配がつきない時間を過ごしてきたのです。

みんなひとしきり話をした後、「電話してくれて嬉しかった、本当に有難う」と言ったようなことを言ってくれました。

 

離れていて直接のお手伝いが何もできない時、「こんな取り込んでいるときに電話をしてもかえって邪魔になるのでは?」とか、「本人でないと、その本当の辛さはわからないのだから」と思ってしまいがちです。

私も今までは、少し落ち着いたころに連絡してみようという考えがありました。

でも、その渦中の体験を話して、少しでも心を解放することは、前に進んでいく上でとても力になるのでは・・と思います。

 

話がそれますが、つい2日ほど前、私も話を聴いてもらったことで、心が落ち着く体験がありました。

先日のこと、私はとても安易に、ある仕事を引き受けてしまったのでした。

仕事の内容、ボリュームをよく聞きもしないで。

いざ詳しい内容がわかってくるにつれ、強烈な後悔が始まったのです。

「うわ~これは大変、私には無理無理、時間だってとれないよ~」

たまたま集まった、数人の仕事仲間の中で、不安や後悔を訴えました。

みんな、私の軽率さを責めるでなく、

「大変だねえ・・・大丈夫?」「今からでも断ったっていいじゃない」

言葉だけでなく、表情や態度でめちゃめちゃ共感してくれたのです。

 

引き受けてしまった現実は変わらないけれど、私の心に、スウーっと風が吹いていきました。

そして次の日には、ざわついていた心がなんとなく治まって、「まあ、できる事から一つ一つやってみるかあ・・」という感じにまで落ち着いてきたのです。

不安を話し、みんなに聴いてもらったからこそです。

 

今回の災害も、気づかいするあまり今電話するのは迷惑、と決めつけないで、自分の心配な気持ちを届けていいんだと改めて感じました。

電話で話していられないくらい大変そうだったら、すぐ切ればいいことですもんね。

 

被災地の方々

心を分かち合いながら、なんとか。

 

 

スズメの子 飛び立つ

昨晩、家族が帰り道、スズメの幼鳥を保護しました。

横断歩道の真ん中でうずくまっていて、車にひかれるのは時間の問題という状況だったよう。

 

とりあえず我が家が一夜のお宿となり、元気になってもらいたい。

 

 

保護した野鳥の飼育方法を調べ、家族みんなで世話をしました。

アクエリアスを人肌程度に温め、ストローで口元へ。

おなかがすいていたのでしょう、クククッと何滴も飲んでくれました。

まだ飛ぶ力はなく、目もほとんど閉じたまま。

 

とにかく暖かくしてゆっくり休ませよう。

ダンボールに新聞を割いて入れ、止まり木、乾燥を防ぐ濡れティッシュ、ペットボトルで作った簡易ゆたんぽを入れました。

ダンボールの上は開けたままタオルで覆って、一夜のお宿の完成。

 

明け方5時、そろそろとタオルをめくってみると、まだ眠っている様子。

よかった!無事一晩過ごしてくれました。

 

7時になって再びタオルをめくると、昨晩と違う止まり木にとまっている。

アッと思った瞬間、箱から飛び立って、部屋の中を飛び回るという事態に・・・

 

やっとの思いで捕まえました。

アクエリアスを与え、庭で獲った青虫も与えてみましたが、こちらは食べず。

 

でもこの様子なら、外に放せそうです。

主人と娘が放しに行きました。

外に出ると、仲間を呼ぶかのように大きな声で啼き、それにこたえるように3羽くらいのスズメが近くに飛んできたそう。

そして子スズメも、大きく大きく羽ばたいて、飛んでいったということです。

「よかったなあ」と言いつつ帰って来た二人の顔はとても晴れやか。

 

たくましく生きてくれますように・・

野生の力を信じます!

 

雨の日にひたすら

名古屋、梅雨入りしました。

 

雨の日にひとり家で過ごすのが、割合好きです。

外の雨音をBGMにして、癒し系のCDをごくごく小さい音量で加える。

外でさえずる鳥の声も聞こえる。(鳥というのは雨でもお構いなしに啼いていますね)

 

さて何をしましょう。

そうそう、近所でたくさん頂いた紫玉ねぎを酢漬けにしておこう。

ついでにお弁当に便利な味卵も。

田舎から届いた大量のソラマメはゆでて冷凍。

 

ソラマメをひたすらさやから取り出し、中の皮に切り目を・・

紫玉ねぎを包丁でひたすらスライスにする。サクサクサクサク・・・

半熟卵の殻をひたすらむく。

 

始める前は、面倒だなーと思っていても、やり始めるとちょっとした楽しさがあります。

暮らしの中の単純作業も捨てたものではない。

何も考えず、もくもくと手を動かす時間。

 

さあ完成!

これで、あと一品というときに助かります。

家族は言うでしょうね・・・

えー また玉ねぎ~? またソラマメか・・・

ま、家の料理なんてそんなもんです。

文句があれば、自分でつくってね!

 

子供の頃は家で、本当にいろいろと加工食品に至るまで作っていましたね。

ゴマもかんぴょうも、干しシイタケも切干大根も。

母と祖母がかんぴょうをくるくるとリンゴの皮をむくように帯状にしていた光景を思い出します。

 

今は自分でやらなくても、何でも手に入る便利な時代。

その恩恵の中でくらしつつも、時々は自分の感覚を頼りに手を使うことは大切かも・・と思います。

人がいにしえの昔からやってきたこと。

玉ねぎの酢漬けくらいで大袈裟ですね・・(^^ゞ

 

 

スピリチュアル体験を考える

スピリチュアルな体験をお聞きすることがあります。

カウンセリングの現場だったり、友人知人、家族、身内から。

 

森を歩いていたら木の声が聞こえた。

部屋の中に光の物体が入ってきて、しばらくそばにいた。

亡くなった人が昆虫になって(あるいは蝶や鳥やカエルになって)会いに来た。

亡くなった人の声が聞こえた、匂いを感じた。

臨死体験であの世の祖父母に会った。

照明が勝手についた、電化製品が勝手に突然作動した。

 

それはもう枚挙にいとまがないほど聞いてきました。

私自身も科学では証明できない不思議な体験が多々あります。

なので、現実では説明のつかない体験も、そういうことはあるだろうな~と普通に受け入れることができます。

 

先日縁あってお会いした方が、自分の身の上に次々と起こる不思議な体験にとまどっている、受け入れられない、と苦しさを吐露されました。

でも不思議でありうが何であろうが、体験していることは事実だし、そしてその体験から何かしら感じていることも事実。

それでいいのではないかと思います。

事実か気のせいかとか判断する必要なんてなく、いいか悪いかなんてものでもないと思います。

 

目に見えるもの、科学で証明できるものがすべてではない。

私は特にスピリチュアル系のカウンセラーというわけではないし、自分を○○系とカテゴライズする気もありません。

ただ体験している事実をそのままみていこうとすると、現実の延長としての説明のつかない不思議なことも普通に認める方が自然だと思うのです。

そういうスタンスでいることに、何か大切なことが含まれているような気がしてなりません。

 

咲きました!

種から育てたオーガニックのスイートピー

 

 

 

舞台になる

カウンセラーとして大事に思っていることがあります。

クライエントさんが表現者であるならば、カウンセラーはその「舞台になる」ということ。

もともとは心理療法家の河合隼雄さんの著書から得たことです。

ご自身の臨床活動において、治療者はクライエントさんが演じる演劇の「舞台になる」という表現をされているのです。

 

初めてこの言葉にふれたときは、その意味がわかるようでわからない、今一つしっくりきてはいませんでした。

その頃の私のセラピスト像は、舞台というよりも、「クライエントさんの伴走者」というイメージ。

クライエントさんの旅の途上、傍らに寄り添って時に励まし、時に重い荷物を半分持ち、共に地図を眺め・・

そんなふうに思っていました。

 

その後、臨床活動を重ねるうち、「舞台になる」という表現の深さに思い至るようになった気がしています。

人の人生はまさに唯一無二のもの、心の景色も十人十色、それをそのまま表現してもらうことがどれほど大事か。

 

台本のない舞台上で、何が起こるか、どんな登場人物が出てくるか、小道具、照明、その他ディテール・・・

何らとらわれのない自由な舞台でいられるか、繊細であるか、そこにセラピストの力量が問われるのではないかと思います。

そこでどんなことが起こってもそのまま受け止める、図らずも降りてくるものがあれば迎え入れる。

クライエントさんの世界を最大限引き出せる舞台に・・・

 

人は本当に一人一人違う世界を秘めています。

現実世界では表現できないことも、舞台上では表現できます。

現実でないところでの表現、それって意味あるの?

あるんです。

 

無意識や潜在意識などの領域、心の奥底が動くと、現実と接している意識も影響を受けます。

意識が現実を作っていると考えると、カウンセリングという舞台で、心の奥底が動くことに大きな意味があるのではないでしょうか。

 

ワインの幸せ

 

先日実家に眠っていた赤ワインを何本かもらってきました。

 

その時の兄との会話

私「最近はワイン飲まないの?」(部屋の隅でほこりをかぶっているワインたちに目をやりつつ・・)

兄「うん、ワイン好きと思われとるから、みんなくれるんだけどね・・・最近はそこまで飲まない・・」

私「ふーん、こんなにあるのに勿体ない・・誰か好きな人にあげたら?・・」

兄「あ、よかったら持って帰る?」(私の下心はお見通しのよう・・)

私「え~ いいのお~」

私の会話、完全に裏面的交流になってます(‘Д’)

(裏面的交流→表面的なやり取りの裏で、別の隠れたメッセージを伝えること)

 

量は飲めません。

せいぜいグラスに2杯まで。

好みのお料理を何品か準備し、いそいそとワインを開ける幸せ。

私のテキトー料理でもワインがあると、格段においしくなるから不思議です。

最近のお気に入りは、湯煎で作るローストビーフ。

失敗なく、おいしく、安くできるいいことだらけの科学実験をしているような料理。

手軽なチーズやクラッカーも常備しています。

 

家族任せにしていたコルク抜きも自分でできるようになりました。

5年ほど前だったか、ひとりの夕食の時に飲みたくなり、「意地でも飲んでやるー」とコルク抜きに挑戦。

ネット動画を見つつ、悪戦苦闘の末、なんとか自分で開けれた時の嬉しさといったら!

それ以来、飲みたいときに一人でも飲む自由を手に入れたのでした。

 

ワインの良し悪しはわからないし、勉強する気もないけれど、口に合うワインと出会ったときは、「ああ、おいしい」と自然に言葉がでます。

それだけで十分。

日々の雑多なことはとりあえずおいといて、とりあえず今宵は料理とワインを。

そんな時間が、私にとってはとてもいいひと時になっています。

とても自分が幸せと思えて、周りへの感謝も湧いてくる。

自分で言うのも何なんですが、いいお酒ですね~

 

2018年4月28日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

わかろうとして聞く

新学期が始まりました。

進学やクラス替え、新しい出会いなど環境が変わるときですね。

 

子供が幼稚園時代からのママ友たちと時々テニスやバドミントンを楽しんでいます。

スポーツをしにいくのか、お口の運動に行くのかわからないような会です。

新学期一回目のバドミントン、やはり話題は、子供たちの新学期のクラス替え、新しい担任の先生のことなど。

新しいクラスになじめるかなー、仲のいい子がクラスに一人もいなくて・・などなどみんな心配はつきません。

 

私も子供のこと、心配です。

家での様子をみていても、新学期のストレスを抱えていることはひしひしと伝わってきます。

親は本人ではないから、基本何もできない。

聞いてあげることくらいしかできない。

ではどのように聞くか

自分の経験を引き合いに出してみたり(私も時々やりますが・・)、とにかく励ましてみたり、あなたのこういうところがダメなんだよとダメ出ししてみたり。

これは子供の心と離れていることが多いように思います。

 

ヒューマニスティック心理学で多大な功績をあげ、来談者中心療法のカール・ロジャーズは、こう言っています。

「直そうとするな、わかろうとせよ」

 

カウンセリングに限らず、親が子供に接する時も一番大切なところだと私は思っています。

「導くのではなく、わかろうとして聞く」

親が子供の気持ちをわかろうとしていること、全面的に受け止めてくれていること、これは子供に伝わります。

そうすると子供は話せる。話せなくてもどこかで安心感を持つことができる。

すると子供自身の力が活性化される。

なんといっても自分のことを一番わかっているのは、子供本人なのだから、ここは親と言っても弟子入りモードで聞くのです。

 

娘が昨日の朝つぶやきました。

娘「あーあ、行きたくないな~」

私「そうやね~」

娘「今とっても失礼なこと思っちゃった。お母さんに私の気持ち、本当にわかってるの?って」

 

ほんとそうなんです。

わからない。

分かろうとすることしかできないのです。心を寄せ続けることしか・・。

 

 


冬の間球根で過ごしたナルコユリがにょっきりと。

二晩ほどでこんなに伸びるなんて!

 

 

2018年4月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

母の7回忌

今日3月22日は母の命日。

今年は7回忌にあたるため、先週実家で簡単な法要を行いました。

 

前日から兄と二人で大掃除、祭壇をしつらえたり、お花を飾ったり、父の身支度を整えたり。

当日は家族でお経をあげました。

リハーサルもせずにいきなり始めたので、脱線ばかり。

たちまち笑いの神様が下りてきて、まじめにやろうとするほど笑いが止まらない、ついには遺影の母と目が合ってまた笑えてくるという不謹慎この上ない状態となってしまいました(汗)

そしてお墓参りも終え、みんなでお料理をかこみました。

兄は自慢のほら貝を吹き、主人も負けじと篠笛を吹き、父はお料理を全部食べることができました。

 

家族だけのささやかなものでしたが、あたたかな法要が行えて、ほっとしています。

母も喜んでくれたことでしょう。

 

母が亡くなってもう6年が経ちました。

その時、印象に残っている出来事があります。

母を火葬で送り出すとき、重い扉が閉まるその瞬間、啓示のように私の中に降りてきたメッセージがありました。

「この世を十分楽しみなさい」

旅立つ母が遺してくれた渾身のメッセージ。

 

そうだ、人生は楽しむものなんだ。

行きたいところに行き、好きなことをし、食べたいものを食べ、人生は自分が楽しんでいいんだ。

それまでの私と母の関係は?・・というと、依存関係を否定できません。

私が20代の初めごろに、心のバランスをくずした母は、娘への依存がだんだん強くなり、私はそれに完璧にこたえようとしていたのです。

それは私が結婚して実家を遠く離れてからも続き、毎日のように電話をかけてきました。

私の心には自分のこと以上に、いつも母がどっかりと住んでいて、気持ちの上ではいつのまにか母優先、実家優先になってしまっていたのです。

 

そんな母だったのに、最期にまったく逆のメッセージを送ってくるとは。

 

先日、星野道夫さんの「旅をする木」というエッセイを読んでいたら、私の体験に通じる体験が書かれていました。

親友が山で遭難して亡くなった後、その死から、ひたすら確かな結論を捜していた、ある時ふっとその答えがみつかった。

それは「好きなことをやっていこう」という強い思いだった。

親友の死はめぐりめぐって、今生きているという実感を僕に与えてくれた。

かけがえのないものの死は、多くの場合、残されたものに あるパワーを与えてゆく。

 

母が旅立つときの体験からも、本当にそう感じます。

「残されたものに あるパワーをあたえてゆく」

素直にそのパワーを受け取りたい。

 

7回忌を迎えて、あらためて噛みしめています。

 

お供えに

好きだった土佐分担と大手饅頭

 

 

 

2018年3月22日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

啓蟄

日差しや風に春を感じます。

先日3月6日は「啓蟄」でしたね。

暖かくなって生き物が土や穴から出てくる季節です。

冬眠していたヘビやトカゲが、のそのそと穴からはい出し、虫たちも活動を始めます。

冬の間生き物の気配がなかった庭に、生き物が戻ってくるのが楽しみです。

庭をちょろちょろとトカゲが這っていたり、蝶がひらひらと舞うのを目にするのは、これからの季節の楽しみ。

ヘビ好きの私は、ヘビにも出会いたい!(出会うとほんとテンション上がります)

 

春先に道路でヘビの死体を目にすることがあります。

せっかく冬を無事過ごしたのに、目覚めたとたん、その生を終えてしまうのはちょっとやりきれません。

まだ動作がにぶい春先のヘビたち、どうか車にひかれることのないよう・・・

車の運転中、道路にロープのようなくねくねをみつけたら、できるものなら回避しようと思います。

 

この時期人の体も、冬仕様から春へと変化するようです。

人も生き物ですもんね。

季節の変化と共にあります。

体の感覚に繊細に注意を向けて、変化を受け入れ楽しむように過ごせたらいいなあ。

好ましい変化も、不調もどちらも。

 

2018年3月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room