祈る

明け方、夢うつつの中で、ある言葉や考えが浮かぶことがあります。

今朝「祈る」という言葉がおりてきました。

おそらく介護施設にいる父のこと、間もなく親元を離れる娘のことなどが気になっているのでしょう。

 

岡山の介護施設にいる父には、新型コロナの影響による施設の判断で、今は家族も会うことがかないません。

2月半ばまでは、毎週兄が面会に行き、私も時々帰省して見舞っていました。

父が元気を持続するためには、家族ができるだけ会いに行くのが大切、と思ってやっていたのです。

今は、洗濯物を取りに行くのみで、父の顔を見ることはできません。

認知症のある父が、会えない間に元気がなくなり、症状も進むのではないかと心配です。

 

そんな折、昨日兄が洗濯物を取りに行くと、職員さんの計らいによって、電話で父の声を聞かせてもらえたとのこと。

「元気そうな声で、僕の名前を呼んだわ。嬉しかったから報告しとくな。」と兄。

ふう、良かった…元気でいてくれた、兄のこともちゃんとわかったんだ。

家族に会えなくても、職員さんや他の入所さんとのかかわりの中で、元気を保っていてくれた。

ありがたく、少し安堵しました。

 

自分にできることはする、でもそれ以上のことは、現実を超えたものにゆだねるしかない。

人が生きていくことは、本人の力はもちろん、目に見えないコーディネーターの力が働いているのではないか…

目に見えているもの、自分でコントロールできることは、全体の一部分にすぎないのでは…

現実を超えたものに畏敬の念を持ち、信頼することも、とても大切なのではないかと思います。

 

現実を超えたものにゆだねること、それは言葉にするなら「祈り」のようなものではないかという気がします。

合格しますように…とか、宝くじが当たりますように…などと祈ることとは違う種類の「祈り」

 

「私にできることは、祈ることしかないの」

いつだったか伯母が言いました。

伯母はその当時、子供のことで悩み、けれど自分にできることはないと悟っていました。

あの時の伯母が言った「祈る」もそういうことではなかったかと、今思います。

 

 新型コロナの影響がここにも…

私が行った翌日、会期途中で突然中止になりました。