風流

所要があり、夕刻の3時間ほど京都に立ち寄りました。

ゆっくり観光するほどの時間はなかったのですが、せっかくなので東山界隈をふらっと歩いてみました。

既に閉門している知恩院を左手にみながら、円山公園へ。

人影もほとんどなく、迎えてくれたのは夜の使者。

 くろねこさん

 

円山公園から細い通路を下ると、いつのまにかそこは八坂神社の境内でした。

ひたひたと闇夜が迫る中、おびただしい提灯の灯りがあたりを照らしています。

突如、異世界にワープしたかのよう。

まるでジブリの千と千尋の世界ではないですか……

そう、千尋一家が引っ越しの途中で迷い込む、うすほのかな提灯に浮かび上がる街。

 

 八坂神社 舞殿

境内のいたるところに灯る提灯が、本殿に、朱塗りの鳥居に、小さなお社にいざなう。

柔らかく幻想的でありながら、その奥に底知れぬものを秘めている感じ。

こちらの心も、底知れなさに揺らぎ、「わあ、きれい…」だけではすまないのです。

普段はオフにしている心の奥の灯りさえ、ひそかにともされようとする。

京都という場所は、日常の中にこのような仕掛けが巧みに組み込まれているのでしょうね。

 

昨日、玄侑宗久さんの「日本人の心のかたち」という講話を視聴しました。

その中で、「風流」とは、「心のゆらぎ」だと述べられているのが新鮮でした。

禅において「風流」はとりわけ大事なことであり、病気、災害、歯痛、死、予測不能な出来事に心がゆらぐこと、それは風流でめでたいことなのだと。

想定外の出来事にゆらぎながら、必死で対応する中で新しい自分に出会う、「ゆらぎ」こそ新しい心の発生現場だということです。

なるほど……

 

生きていると予測不能なことばかりです。

個人的な些細なことから、コロナ禍のような世界的な出来事まで、心がゆらぐことばかり。

これも風流なことなのか……

そもそもゆらいでいる世界で生きているのだから、自分も一緒にゆらぐのが自然なのでしょう。

ゆらぎはしなやかさ、強さではないかと思います。

 

観光客が消えた八坂神社の門前町にも、提灯がずらりと並び、ちょっと感動する風流さ。

それは祈りにもみえ、京都の底力を感じました。