虹をみる

先日、新幹線の窓からぼーっと外を見ていたら、淡い虹がかかっているのに気づきました。

♪雨があがったよ おひさまがでてきたよ♪

♪青い空の向こうには 虹がかかったよ~♪♪

思わず口ずさんでいました。

(おかあさんといっしょで歌われていた「虹のむこう」という歌ですね、今でも歌われているのかな?)

 

霧の中にあらわれた虹は神々しく、いいことありそうな予感。

夢中で眺めているうちに、ふいに頭をよぎったこと、「あと何回虹をみることができるのだろう……」

明日も明後日も10年後も、当たり前のように私は生きているものだと思い込んでいますが、本当のところは分らない。

兄は桜の季節になると、「今年も桜がみれたなあ」と思うそうです。

自分が死と隣り合わせにある生き物であることを、どこかで意識しているのでしょうね。

 

私もときどき死を意識している自分に気づきます。

レアな体験をしたときなど、特に。

すっかり姿をみかけなくなったヘビと出会ったとき、側溝から側溝へイタチの親子が素早く移動するさまを目にしたとき……

この先、このような出会いが生きているうちに何度あるのだろう。

いつか訪れる死を認めつつ生きることは、ネガティブなことではなく、むしろ今をしっかり生きることにつながるような気がします。

 

さて、今日は室外機にぶら下がっているアシナガバチの巣を発見、自分で駆除しました。

子どもの頃、アシナガバチに2~3回刺されているので、(スズメバチやミツバチにも刺されている)刺されないよう気をつけました。

再び刺されて、稀に起こるアナフィラキシーショックになってあっけなく……なんてことにならないよう。

厚手のナイロンのジャンバーを着込み、フードをかぶってその上から帽子をかぶり、首にはタオルを巻き、手に軍手、眼鏡にマスクという防護服状態でいざ出陣。

まだ小さい巣だったので、作業時間1分で終了。

何事もなく駆除に成功した私、今も生きております(ハチには申し訳ないことをしました)

     京都「みぞろが池」の湿地 

カモのつがいが仲良く餌をさがしていた

 

 

ゴッホ 響きあう魂

「ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」の最終日に行ってきました。

収集家ヘレーネと、画家ゴッホの関係を、「響きあう魂」と記したところが秀逸です。

ゴッホの絵の前に立つとき、その作品が放つエネルギーにしばしば圧倒されます。

130年の時を超え、ゴッホとつながるような気がする。

その純粋さ素直さ、あふれ出る感情に心ががうたれます。

響き合うのです。

 

ゴッホの目を通して、私もこの世界や自然をみている感覚になる。

木々も、叢も、大地も光も、風も、すべてがうねり、燃え立っている。

まるで絵が動いているかのよう。

ゴッホはその素直な感性で、森羅万象と響き合っていたように思えるのです。

年代を追って作品をみていくと、晩年に至るにつれてその傾向は強く、ゴッホの内面がほとばしるように作品に現れているのを感じます。

 

帰り際、ミュージアムショップをのぞくと、「アルゴグラフ」という立体複製画のコーナーがありました。

ちょっと迷ったけど、小さなサイズの一つを買いました。

       「レモンの籠と瓶」

パンフレットによると、ヘレーネはこの作品について、助手に次のような手紙を送っています。

「ファン・ゴッホが描いたレモンを理解しようとするとき、私は頭の中で数個のレモンをその隣に置いてみます。そうすると、この絵が現実とどれほど異なっているかを感じるのです。」

 

この複製画を見た家族も言いました。

「これは大量の玉ねぎ?」

そう言われてみれば、玉ねぎにも見える。

まあ、何にみえてもいい。

 

淡いイエローのテーブル、淡いグリーンの背景のやさしさ。

リズミカルにころころと転がっているレモンたち。

なんかいいのです。

この絵の前にたたずむと、ちょっと幸せな気分になるよ。