少食の民

少食民のための飲食店、あればいいのになーといつも思います。

外食で普通に出てくる量が、私にとってかなり多すぎることがしばしば。

先日も、普通盛のお蕎麦を頼んだのに、大盛としか思えない量だった。

美味しいものが、途中からストレッサーに変わってしまう悲しさ……

なんとか残さず食べたものの、その日は食べ過ぎで終日苦しかったです。

 

出来れば残したくないのです。

勿体ないことをしたという罪悪感とともに、残したものたちの行方を想ってしまう。

厨房にさげられた残りものを見て、作ってくれた人はちょっとがっかりするだろうな……

残飯として捨てられるそれは、環境に負荷をあたえる食品ロスの道をたどるしかない。

勉強不足の私でも、食品の焼却や埋め立てが、地球温暖化などの原因の一つであることは知っている。

その影響を真っ先に受けるのは、遠くのシロクマやアザラシたち、伝統的な暮らしを守っている先住民の方たちなのかも知れない。

家で食材を無駄にすることはほぼない私、外で平気でそれをするわけにはいかないではないですか。

 

できることはしている。

普段から少食を公言しているので、仲間と食事に行くと気持ちよく誰かが手伝ってくれる。

「食べてあげる♡」という神のこえは本当にありがたい。

その助けがないときは、「食べたいもの」と「完食できそう」の二つの要件を満たすものを、慎重に選ぶ。

セットメニューのときは、「ご飯、半分にしてください」とお願いする(シロクマを思い浮かべて勇気を出す…)

 

京都府は、食品ロス削減の取り組みとして、「食べ残しゼロ推進店舗」の認定制度があるみたいです。

食材を使い切るとか、食べ残しを防ぐ工夫とか、残したものを持ち帰れるとか、食品ロスゼロ活動への協力店。

こういうお店だと、「量を少なくしてください」とか「持ち帰ります」とか言いやすくていいですね。

 

われら少食民にやさしい飲食店があってもいいのになーと思います。

どのメニューも普通のレストランの半分くらいの量、足りない人はダブル(2倍量)トリプル(3倍量)も選べますよ…みたいな。

ここまでは望めないにしても、どのお店でも、ご飯や麺くらいは普通に(小)が選べるといいのになあ。

TVなどで、大盛りのお店が紹介されたりして、量が多いというサービスはよくみるけれど、量の少なさの利点は取り上げられることがない。

もともと少食の人、病後の方、食事は軽くデザートいっぱい食べたい人、いろんな少食民がいるはず。

地球にやさしく、少食民にもやさしい文化がひろがることを切に願います。

 

      北極ギツネ(星野道夫さんの絵葉書)

写真展「悠久の時を旅する」

先月の話になりますが、JR髙島屋で開かれていた写真展「星野道夫 悠久の時を旅する」の初日に行きました。

その話を友人にしていたところ、友人も後日行ってみたとのことで、思いがけず感想など語り合うこともできました。

共通の体験を分かち合えるのは嬉しいことです。

 

写真展はすばらしかった。

入ってすぐの写真、果てしないツンドラの大地を埋めつくす何万頭というカリブーの群れに、早々と心をつかまれました。

同じ地球のどこか、アラスカでは今もこのような光景があるのだ……

その場にいるような臨場感。

ヒグマの子供が母親をちょっとさわって、安心している様子は人と何らかわりない。

白熊の瞑想しているかのような哲学的な表情。

ジャコウウシのユニークな顔と群れの迫力。

ムースが夏の終わり、袋角の表皮をはぎ落し、血みどろに垂れ下がっている異形の姿。

どの写真にも感嘆します。

なぜ星野さんにはこのような写真が撮れたのだろうと……

 

写真はもちろん、エッセイや、枠を超えた興味の広がりなど、その世界観にとてもひかれます。

星野さんの作品は、詩や物語のよう。

この世界は、境界などなくて、つながり合っていて、自分もその懐に抱かれていることを思い出させてくれます。

 

5~6年前、たまたま本屋さんでみかけた「旅をする木」を手に取って以来、著書を読むようになりました。

それらの作品は、すっかり私の癒しアイテムとなっています。

星野さんを通して、アラスカの大地や海、動物たちとつながれるような気がする。

エスキモーやインディアンの人々、その先祖の人たちの営みまでもが、遠い世界のことではなく、身近なものに思える。

ここにある現実はひとかけらにすぎないこと、そこからつながっているものは果てしないことを、気づかせてくれるのです。

それも本能的なレベルで……

 

そういえば、子どもの頃、いたくひきつけられた物語があります。

「エスキモー少年ティクタの冒険」というお話でした。

あらすじはこんな感じです。

少年ティクタはある日、割れた氷に乗ったまま海に流されてしまう。

このままでは死を待つのみの状況の中、ティクタのサバイバル能力がすごいんですよ。

アザラシの皮(だったかな?)を手作りの針で縫って、浮きボートをつくる。

狐の毛皮で防寒着か何かを作り(かなり記憶が怪しいが)、一人でたくましく命をつないでいくのです。

ピンチを淡々と受け入れて、工夫して目の前のことを行い、お手製の浮きボートで村に帰ってくるのです。

少年の叡智と、雄大な自然との調和みたいなものに憧れました。

 

子供の頃、エスキモー少年ティクタの世界にひきつけられた私は、今もかわらず、アラスカの大地、自然、動物、先住民族の営みにあこがれているのです。

いつか行ってみたいなあ……

     写真集やエッセイ集に癒される…