河合俊雄教授最終講義で京都に

京都大学百周年記念ホールにて行われた、河合俊雄教授最終講義を聴講してきました。

後日オンライン配信もあるようですが、やはり足を運んでよかったです。

その場に身をおいてこそ得られるものは大きい。

歴史ある場のもつ精神性、集う方々、全てが混然一体となって醸し出されるもの、それを全身で享受することができました。

 

講義のタイトルは「発達障害の心理療法と物語の縁起」

河合教授は研究者としてのご経歴、業績がすごい方ですが、事例の語りからは一人の心理療法家としての繊細なゆらぎが伝わってくるようでした。

セラピストとして人と関わることが、どれほど無限のものをはらんでいるかを改めて思い、深い共感を覚えます。

つたない自分の経験からでさえ確かに感じていたことが、形をおびてくる感覚、そして背中を押される、そんな感動もありました。

講義のあと、山極壽一さん、田中康裕さんらとのディスカッションもあり、さらに内容が深められていくさまも見応え満載でした。

また一つの扉が開かれるような体験、次に続いていく気配です。

 

そして折角の京都、一人歩きも楽しんできましたよヽ(^o^)丿

百万遍のバス停に降り立つと、交差点で警官が大規模交通整理、白バイも次から次へと走ってくる。

何事だろうと思っていると、4年ぶりの全国車椅子駅伝だったのですね。

まもなく先頭の選手が見えたと思ったら、一瞬で矢のように走り去っていった。

沿道の応援の人波に紛れて、しばらく私も拍手で応援。

 

次に知恩寺の門をくぐると、ちょうど朝の読経が始まって、耳を傾けながら境内を散策。

お昼になったので、進々堂で軽くランチ。

ミルクコーヒーを頼んだら、昔ながらの角砂糖がちょこんとスプーンにのせてあって、懐かしい。

 

ランチの後、京大の周囲をぐるりと歩いて、吉田神社へ。

境内にはいくつものお社があり、ひとつずつお参りする。

今宮神社では四神石に出会ってちょっと嬉しくなる(写真は玄武石、この日ハンカチを忘れ、京都駅で玄武の刺しゅうハンカチを買ったばかりという偶然)

 

はずれにあって見落としそうになったけれど、こちらが吉田神社の元本殿

写真からはみえませんが、独特の様式のほんとうに美しい本殿です。

ちょうど手を合わせたそのとき、中から祝詞が響いてきました。

人を感知するセンサーで自動的に流れるのかと一瞬思いましたが、中で祭祀が始まったようです。

 

神社の裏山にあたる吉田山公園にも登り、京都の街並みをしばらく眺めました。

こんな行きあたりばったりの日、心も体も喜んでいるような気がします。

コリ先生

コリドラス・パレアタス(通称 青コリ)です。

我が家に迎えて一年半が過ぎました。

     

 

水槽の底でいつも思索にふけっている、この哲学的な風貌。

ひそかにコリ先生と慕い、日に何度もその姿を捜すのが日課となっています。

30センチ四方の小さな水槽ですが、水草の根元やら、二つのミニたこつぼの中外など死角がいっぱいあって、無事その姿を見つけると安心する。

 

コリ先生はどんどん大きくなる。

3~4か月ごとに帰省する娘が「わッ、また大きくなってる!!」と毎回のように驚く。

この一年半で体の長さは倍近くになり、今では6センチくらいありそうです。

特にしっぽの部分が、ぐーんと伸びた気がする。

さすがはナマズの仲間、成長するにつれナマズ感が出てきました。

 

年末、今までのお気に入りのたこつぼが窮屈そうなことに気がついた。

たこつぼの内側の丸みに沿って、まるでシャチホコのように体を反らせている。

 

さっそく一回り大きくて、底が平らになっている新しいたこつぼを買ってきて、入れてみました。

今まで、ご不便をおかけしていましたね……

さあ、今日から手足を伸ばしてゆっくりとくつろいでくださいね、とばかりに。

ところが……

コリ先生は、1か月過ぎてもかたくなに新居に入ろうとしない、旧居でシャチホコスタイルを続けている。

新居と旧居の場所を入れ替えてみたけど、効果なし。

新居あたりにエサを落とし続けてみたけど、効果なし。

 

そんなある日、コリ先生を水槽に残したまま、水換え作業をした。

作業中ふと気づくと、なんとコリ先生が新居に入っているではないですか!!

どさくさにまぎれて、不覚にも新居に足を踏み入れてしまったみたいです(やったー!!)

 

こちらの家ももなかなか良いではないか…と思ったのでしょうか。

それからは新居と旧居を行ったり来たり。

ちょっとしたきっかけで、新しい世界が広がることもある。

ね、コリ先生。

 

岡本太郎展に行く

愛知県美術館で開催中の展覧会「岡本太郎」に行ってきました。

「なんだこれは!」にあふれていました(笑)

好きな作品にまた会えたし、初対面の作品もいっぱい!!

 

岡本太郎さんの絵が好き。

立体作品、パブリックアート、写真が好き。

著書の多岐にわたる内容、深い洞察、その語りにはうなるしかない。

何よりご本人が好き。

岡本太郎さんという存在そのものがどこを切りとってもアートだと思う。

 

かつて(1980年代か…)マクセルのビデオテープでのCMは圧巻でしたね。

「芸術は爆発だ!」のCM…

あのころ積極的にメディアにも出られていました。

目をむいて天を仰ぐようなしぐさや言動は、奇人?演出?と捉えられる向きもあったと思いますが、そうではないと思います。

これほど魂が洗練された人はそういない。

純粋そのもので、生きることに誠実で、このうえなく繊細で、人間としての成熟度のすごさに誰も追いつけなかったのだと思う。

 

生前、NHKの美術番組にゲスト出演していた岡本太郎さんの印象的なシーンがありました。

「太郎さんのもピカソのような芸術家を目指していらっしゃいますか?」という司会者の質問に「とっくにピカソを越えていますよ」と平然と答えていました。

この司会者にみられるような型にはまった思い込み、社会のヒエラルキー、体系づけ、形式化などに、とことんあらがった人だろうと思います。

でも、世間は無知で自分の境地を到底理解しない、と切り捨てることはなかった。

中心に「愛」があったから。

ご本人にとって正直に生きただけのことなのでしょうが……

生涯を通じて、むき出しの自分を投じながらメッセージを発し続けた人だと思うし、今もその存在は輝きを増している。

 

平日の雪のちらつく寒い日でしたが、会場は人でいっぱい。

若い方の多くが、太郎さんのメッセージコーナーで熱心に読み、スマホで撮影しているのが印象的でした。

おお、仲間よ……

 

             本もいい

爪をパックリ

年が明けて、はや二週間ですね。

今年もよろしくおねがいします!

 

お正月も一段落した先日、ピーラーで爪をパックリ切るという失敗をしてしまいました。

考えごとをしつつ、あせって夕食の支度をしていたのです。

山芋の皮を勢い良くむいていて、山芋を持っていた指の爪までやってしまった。

あっと思ったときは、左手中指の爪の中からじわっと血が出てきた。

見ると爪の中ほどが、水平方向に2/3くらいパックリ切れているではないですか。

生爪のケガは痛いよ……わーん……

 

そして効き手ではないといえ、使えない指があるのは不便でしかたがない。

普段意識もせずに指を使っているけれど、それは爪も含めて総合的な動きだったのだとわかる(人間の手って、なんて繊細で精巧な優れものなんだろう)

バンドエイドで保護していても、家事をしているうちすぐはがれる。

うっかり割れた爪に負荷をかけてしまって、イタッとなる。

何かいい方法はないものかと頭を巡らせたとき、以前友人から聞いた話を思い出した。

友人のお母さんは、あかぎれで皮膚がパックリ割れたとき、瞬間接着剤を塗って家事をしていたという。

そうだ、私も瞬間接着剤でパックリ割れた爪をくっつけてみようか…

だけど瞬間接着剤はちょっと抵抗があるなー、医薬品でいいものがないかしらん…ということで薬局で聞いてみた。

 

年配の店員さん、「はい、ありますよー、これこれ」とはりきって紹介してくださったが、液体絆創膏なるもの。

さかむけや、あかぎれの指の絵が箱に描いてある。

「あれれ、これは皮膚用だったわ… 爪でしたよね、ちょっと違いましたねー、うーん、爪は無理かも… 皮膚と爪の成分は違いますしねー」

店員さん、はりきりモードから一転、申し訳ないモードになりながらも、他に何か提案できるものはないかと悩んでおられる。

その親身な様子がありがたく、親近感もわき「これで試してみます!」とダメもとで皮膚用を買ってみた。。

 

さっそくお風呂上がりに、割れてパクパクしていた爪に塗ってみた。

しばらく沁みたけれど、ここはちょっとの我慢、へらで押さえてしばし固定した後、そっと離してみた。

ん、なんと……くっついている!!

二度塗りすると更にいい感じ。

意外に使えました。

毎晩塗るのが、ちょっとした楽しみにすらなってきた。

店員さんと「大木のリュウバン」君、ありがとう。

 

年始めの失敗。

この一年、心おだやかに落ち着いて過ごせよ、ということですね。

 

      心の友、リュウバン君と新しい手帳

 

ゆらぎ

気がつくと、年の瀬を迎えていました。

今年は個人的にいろいろと出来事が多く、それ相応に喜怒哀楽のある一年でした。

「心のゆらぎ」といっぱい出会ったともいえます。

禅語における「風流」とは、もともとは「心のゆらぎ」と同義だと聞いたことがあります。

風に流れると書いて「風流」

さまざまな出来事(風に流される)にゆらぎながら、心とつき合い試行錯誤する中で、やがて新しい自分に出会う。

「ゆらぎ」は新しい心の発生源。

そうであるなら、どんな風にも流れ、流されようではないかと肝がすわる心地がします。

 

今年は新しい出会いも多くあり、嬉しいことでした。

同じ時代に生き、奇跡のような確率で出会うご縁、これも一つの「ゆらぎ」です。

次の何かへと運んでくれます。

 

世界的、社会的にも大きな「ゆらぎ」が続いています。

表面張力の限界かのように、あふれ出す事実や声。

人も社会も、本質の時代へと舵をきっているのかなあという気がしています。

 

先に何があるのか知らないけれど、できることは風に流れ流されながらも、自分の船をこぎ続けていくのみ。

直観と偶然の出会い、そして好奇心の赴くままに……

 

今年一年ありがとうございました。

皆さまにいい年が訪れますように……

 

       岡山から届いた水仙 季節外れのエゴノキの花

バラの地植え

年内に、と思っていたバラの地植えが完了しました!

右が地植え

 

一年半かけたバラの再生計画。

この数年樹勢が衰え、「かたあしダチョウのエルフ」または「夕陽のガンマン」みたいに哀愁ただよう姿になっていたバラ。

フェンスに寄りかかり、かろうじて立っていた。

 ほらほら……

 

世代交代を思いつき、一年半前に3本の挿し木を試みていた(その経緯はコチラ⇒ 5月 | 2021 | (n-room.moo.jp) 

結果、みごと3本とも成功。

一番勢いのある株を晴れてこのたび地植えにしました。

かたあしダチョウのエルフのバトンは、無事に2代目に渡された。

 

バラの地植えって大変なんですよ、かなりの重労働。

しかも今回の作業は、まず先代エルフを抜きとることから。

土木用のスコップでせっせと土を掘り返す。

この10年でエルフは地中深く根を張り、根塊は(根が養分を蓄えて塊になったもの)巨人の握りこぶしくらいになっていました。

地上の姿に比べ、地中の姿のなんとたくましいこと、まだまだ生命力にあふれていることに驚きます(なのにごめん、エルフ……)

 

エルフが去った大きな穴に(深さ60㎝、直径50㎝くらいがいいらしいが、非力なので深さ直径とも40㎝で妥協する)骨粉、堆肥などを入れ、掘り返した庭土とまぜながら深さを調整する。

そこに鉢から取り出した2代目を鎮座させ、先日買ってきたバラの肥料をぐるりとまきながら、庭土を盛っていく。

最後に手のひらで、株の周りを押し固め、落ち着かせて完成。

ついでにもうひと頑張り、残り2本の苗も一回り大きい植木鉢に移植して、作業完了!!

なんという達成感じゃ……

 

ここで思い浮かぶのはこの言葉。

「明日世界が滅びるとしても、今日君はリンゴの木を植える」(マルティン・ルター)

ついでに…

「明日どんな日かしらないけれど、今日私はバラの木を植える」(フジタ)

そういえば、リンゴの木もバラ科の植物でしたね。

 

先代エルフにはしばらく2代目の傍らで、見守ってもらいましょう。

来年の春はいっぱい花が咲くといいなあ……

 品種はブルームーン 花言葉は「神の祝福」

自己実現

ユング心理学についてのYouTubeをみていたら、「自己実現」について語られるくだりがありました。

ときどき、TVなどで識者が使っているのをみかけますが、人によって解釈はさまざまのように見受けられます。

 

私がこの言葉を初めて気にとめたのは、カウンセリングの専門学校で学んでいた最初のころ、講義の中でさらっと出てきました。

ん、自己実現って何?

例えば、社会的に成功を収めたアーティストは自己実現した人生、ということになるのだろうか。

うーん、わかるようなわからないような…

いまひとつスッキリしなかった私は、講義後、担当講師に質問してみた(いつも教室のすみっこでひっそりとしていた私としては、とても珍しい)

講師は私の質問に直接的な答えは示さず、アブラハムマズローの欲求5段階説を紹介してくれた。

 

その説とは…

人の欲求はピラミッド型の5段階の階層をなしており、一番下が①生理的欲求、②③④と上に続き、最上層が⑤の自己実現欲求となっている。

⑤自己実現欲求(自己のうちに潜在している可能性を最大限に開発し、実現して生きる)

④承認欲求(人や社会から認められたい) ↑

③所属・愛情欲求(グループに属し、愛情を求める) ↑

②安全欲求(危険のない安全な生活) ↑

①生理的欲求(食欲、睡眠欲、排泄欲) ↑

 

下層の欲求が満たされるごとに、段階的に上へと進み、最終的には最上層の⑤自己実現欲求を満たそうとするわけです。

ふむふむ、①~④はわかりやすい、でもやはり⑤の自己実現はわかりにくいなあ…と思った。

???な顔をしている私に講師は、「余計混乱させちゃったかな? アハハ…」とのたまい、教室を去っていきました。

 

今思うと、あのとき講師は、「これから長い時間をかけて、あなた自身が答えを求め、あなたの自己実現を探求するのだ」とこちらに投げかけたような気がするのです。

あれから十数年がたち、少しばかり私のなかで自己実現とはこんな感じか…くらいの輪郭はみえてきた。

自分が実現するにはまだまだ道は遠いですが…

 

人の評価など気にしているうちはまだ④の承認欲求のあたりをうろついているのだと思う。

ただ私の感覚では、階層の境目はもっと曖昧なものではないかと思う。

そしてどの段階にいたとしても、①~⑤すべての欲求をいくらかずつ包含しているのではないかと思う。

人は複雑なものだと思うから。

 

ときどき、限りなく自己実現に近い人生を歩んでいるのだろうと思わせる人を、TVなどでみかけることがあります。

例えば、農業とか漁業を生業にしてきたお爺さんの、しわ深く日に焼けたお顔のなんと魅力的なこと…

誰かに評価されようなんて意識すらない人生。

ただ自然の中で、来る日も来る日も好きな仕事をし、ほどほどに生活の糧を得て、自分が満ち足りていることがすべて。

この方たちの圧倒的な存在感の前では、自己実現なんて言葉すら形見が狭いよ……

 

       ねーこは こたつで 丸くなる ♪♪

 

帰省

岡山の実家に帰省してきました。

夏ごろから帰りたいと思いつつもタイミングが合わず、先延ばしにしていたので、やっと帰れてほっとしています。

 

施設にいる父との面会が許され、急きょの帰省でした(コロナで面会制限が続いていた)

一年ぶりに父の顔をみて、一方的だけど声をかけることができた。

実家と、母方の家のお墓参りもできた。

高齢者住宅にいる義理の父にも会いに行けた。

兄とも久しぶりにゆっくり話せた。

こうして滞在中にあれこれと動きながら、生まれ育った土地のパワーを存分に浴び、エネルギーチャージをしているのだろうと思う。

 

生物にとって生まれた場所には、その存在を裏付ける特別な何か、があるのではないかと思います。

サケはその鋭い嗅覚で水中のアミノ酸組成を嗅ぎ分けて、必ず生まれた川に戻ってくる…

動物は帰巣本能に従って、元いた場所に帰ってくる…

生物としての私もしばらく帰っていないと、とにかく一度帰らねば……と内なるものが疼きだす。

自分を育んでくれた土地、水、気といった環境的なもの、先祖の気配、そういったものに誘われている感じがする。

いつも帰省すると疲れるどころか、元気になって帰ってくるのです。

今回は7か月ぶりのエネルギーチャージでした。

 

フル充電したうえ、強欲な私は、行きの倍の重さになったトランクを軽々と持ち帰ったのでした。

増えた中身は、兄からかっさらった高そうな日本酒(私に価値はわからないが)

ちょうど食べごろを迎えていた大きな柿やかんきつ類(雨にぬれながら兄が採ってくれた)

帰り、新幹線の荷物棚にこの異常に重いトランクをのせようとして、おっとっととよろけたが、隣席の男性がさっと立ち上がり手伝ってくださった。

ほんとうにありがとうございました <(_ _)>

 

      福山城 福山駅のホームからこの近さ

不確かさ

十数年前、心理学の基礎を学んでいたとき「不確かさの受容」という言葉に目がとまりました。

論理療法が目指す、精神的に健康な人の条件としての、9つの項目の一つとして示されていたものです。

その当時の私に刺さったからこそ記憶にとどめたわけですが、以降、私と相性の良い言葉の一つとなったようです。

 

子育て(この言葉にも少し違和感をもちますが)など不確かさの最たるもの。

将来どんな風になるかなんてわからないし、見届けられるわけでもない。

今を精いっぱい、一緒に時を過ごすだけ。

 

コロナ禍もあって、以前よりも確実に不確かなことが増えました。

今までの当たりまえが、必ずしも当たり前でなくなった。

帰省すれば施設にいる父にいつでも会いに行けたのに、面会制限で会うことができない。

この秋も、一度実家に帰ろうと思いつつ、色々と条件がそろわず、なかなか日程を決められない。

普段の予定をいれながらも、一方で帰省のタイミングを延々と探っている不確かさが隣にある。

 

自分の健康だって、不確かなものです。

いちおう元気と思っているけれど、身体の中まで見えないのでわからない。

 

不確かさは、落ちつかなかったり、不安な面もある。

ただ、生きていくことはそういうものだと思うのです。

絶対に確実なんてない、自分がコントロールできることなどほぼない。

外的な要素が大きく関わってくる。

社会の動き、人が織りなすコミュニティ、地球環境、時の流れ、ありとあらゆるものと相互のなかにいる。

多層的に動いている。

 

でもね、それはは救いだとも思うんですよ。

自分の行いがきっちりその単独の結果として返ってきたら…

先のことがが青写真のようにみえたとしたら…

私はちょっとやっていられないかも(それがたとえ好ましいものであったとしても…)

 

この世は案外うまくできているよ、と根拠もなく思っている私。

不確かさとともになんとか今日も過ごしております!

 

      兄弟かな?… 同じ顔の色違い

またうっかり

またやってしまいました。

仕事の帰り、ちょうどお昼になったので、通りすがりのコメダにはいった。(名古屋といえばコメダ、私は10年ぶりでしたけど)

カフェはすいていて、ゆっくりランチを楽しんだあと、レジで伝票を出す。

「1100円です」と店員さん。

そのときやっと気づいた。

ない、ない! お財布がない!

とっさにあわてたけれど、実はこういうときのために準備しているお金がある。

定期入れに1枚ずつ折りたたんだ、千円札が2枚。

胸をなでおろしながら、二枚の千円札を一枚づつ広げて、トレーにのせたのでした。

何かを察したらしい、二十歳くらいの店員さんの笑顔がやさしかったです。

 

いったいいつになったら学習するんだろう。

何度も同じようなうっかりを繰り返している。

かご一杯の食料品を前に、スーパーのレジでお財布がないことに気づいたのも一度や二度ではない。

電車の定期を忘れて、空しく現金を払う。

スマホを忘れて、緊急連絡が入っていないことを祈りながら、一日を過ごす。

日傘や傘はいろんなところに忘れて、何度とりに行ったことだろう。

 

うっかりのたびに、決心はするのです。

もう、これをを最後にしようと。

何日かは注意している。

出かける前にバッグの中身をチェックする。

「財布、スマホ、マナカ(交通カード)筆記用具、4点セットOK!」

荷物が複数のお出かけの時は、電車を降りる、お店を出るなどの移動のたびに個数をチェックする。

「バッグ、紙袋二つ、傘、4点OK!」といった具合に。

でも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざどおりに、たちまち元ののうっかり体質に戻っている。

チェック習慣を自らに課したことも、いつのまにか忘れている。

 

そういえば、自転車で子どもの参観日に行ったのに、そのことをすっかり忘れ、歩いて帰ったこともあったなあ。

小学生の時は、寄り道した友達の家にランドセルを忘れて帰ったっけ。

思いだすと枚挙にいとまがないです。

 

定期入れの二千円、このたび三千円に値上げしました。

でもそこじゃなくて、ホントに気をつけなければね……

 

     庭にオンブバッタの大量発生