「猫を棄てる」を読み返す

本棚の中を覗くと、なぜか背表紙がぴょこんと飛び出た一冊があった。

「猫を棄てる」 父親について語るとき 村上春樹

2020年に新刊で読んだものだったが、再び読み返してみた。

 

身内のことを書くという著者にとって気の重いことを、猫にまつわる父と思い出が思いのほか助けてくれたという。

そして本となったことは、私を含む読者にとって幸運だった。

個人的な文章ではあるが、書き残しておかなければならないという想いが著者に強くあったのではないか。

ひとつには戦争というものが、人の心と人生、またその一家にどれほどの影を落としたのか…

父親についての記憶や、その人生についてのあれこれが淡々と語られることによって、ほかのどの方法よりもこちらに届く。

 

戦後20年たって生まれた私であるが、子供のころ、大人から戦争の話を聞くことがあった。

弟二人を戦争で失っている父方の祖母は、弟の一人が出征した日のことを、母や私に語ったことがあった。

出征の日、家の前には村の人達が見送りに集まってくれている。

しかし弟は、竈(くど)のところにじっと佇んで、なかなか家を出ようとしなかったという。

皆を待たさないようにとの配慮から、両親は早く出るよう息子を促す。

皆の手前、追い立てるように息子を見送らなければならなかった両親の胸中もいかばかりだったろうか。

もしこの弟が生きて帰っていたら、このエピソードがこれほどの重みをもって、祖母の心に刻まれたかどうかわからない。

孫にこの記憶を語ることもなかったかも知れない。

祖母を通して語られる情景から、子供の私は会ったこともない大叔父の存在を感じとり、心に刻んだのだった。

 

カウンセリングは家族の歴史にふれるという側面がある。

戦後80年たった今なお、戦争によって負った家族の傷が浮かび上がることがある。

 

過ゆく時代のなかで、忘れてはいけないこと、おろそかにしてはいけないことがある。

 

      オシドリと鯉

昭和のおやつ

出来たてプリンです。

パック牛乳の賞味期限がせまったときに ときたま作るおやつ。

卵、牛乳、砂糖のみのシンプルな材料、そして洗い物も少ないのが、ぐうたらな私には助かる。

 

子供のころ、他家でいただくおやつはさまざまだった。

叔母の家では、コップで蒸したホカホカのカスタードプリンと揚げたてのクッキーが定番だった。

クッキーは子供たちに好きな形を作らせてくれ、それを次々と揚げながら食べる体験型おやつ。

 

幼なじみの家では、人参や青菜入りのホットケーキを4歳上のお姉ちゃんがよく作ってくれた。

お母さんの健康志向の強さがおやつにも反映されている。

ある日のおやつはめずらしくインスタントラーメンだったが、スープの表面がすきまなく刻んだニラで覆いつくされていて驚愕……

 

イチゴ農家の友達の家のおやつは夢のよう。

出荷できない変形イチゴが食べ放題!!

子供は何でも遊びにしてしまう。

広い作業場に即席のジャンプ台を作り、ジャンプしてはポーズを決め、ご褒美に大きなイチゴをほおばる。

ジャンプ、ポーズ、いちごパクッ、 ジャンプ、ポーズ、いちごパクッ その単純な遊びが楽しくて仕方なかった。

 

またある友達の家では、お母さんオリジナルの巻きずしのようなおにぎり。

酢飯ではなく塩味のごはん、具はしょうゆ味のおかか。

遊んでお腹を空かせた子供には本当にごちそうだった。

 

ところで、うちの家では、どんなおやつを出していたんだろう。

何故か思いだせないが、手作りおやつではなかった。

多分かっぱえびせんとか味覚糖のキャンディ「純露」とか市販のおやつだったと思う。

まれにハウスプリンエルとか、シャービックとかはあったかも知れない。

 

それにしても昭和のおやつは、それぞれの家の色合いがある、素朴なおいしさだった。

小さなお客のための、心づくしのおもてなし。

あたりまえのように頂いていたけれど、ありがたいことだったな…と今思う。

旅するスイセン

昨年11/23のブログ「球根を植える」の続編です。

前回、岡山の叔母が送ってくれたスイセン、チューリップ、グラジオラスの球根を植えたことを記していました。

あれから3か月、ほらほら、スイセンが今ちょうど花ざかりです。

このスイセンは、もともと実家(岡山県笠岡市)の山の畑で栽培していたものを倉敷市の叔母が持ち帰り、球根を増やしたもの。

私もいつか名古屋の自宅に植えたいと思っていたところ、昨年の秋に叔母が球根を送ってくれたのでした。

 

生まれた土地の思い入れあるスイセンです。

数十年前、瀬戸内海を見下ろす山の畑、あたり一面に咲き誇っていたスイセンの群落。

ある年、祖母と母は、花市場に出荷することを思いついた。

試しに少量のスイセンを束ね、花市場に持って行ってみると、その品質の高さを褒めそやされ、どんどん出してほしいと言われた。

祖母と母は張りきった。

スイセンのむせるような香りにつつまれながら、鎌で刈っては10本単位で束ね、それをさらに10束単位にして100本の包みを作る。

そうやって、何百本ものスイセンは、日々母のスーパーカブの荷台にくくりつけられ、花市場まで運ばれたのだった。

食卓の話題も、母と祖母のスイセン出荷のあれこれの話で弾む。

明らかに他のどの農作業よりも楽しんでいる様子だった。

そんなわけで、子供のときから親しんだ花、スイセン。

笠岡から倉敷、そして名古屋へと旅したスイセン、これからは我が家の庭でも毎年楽しめそうです。

 

ちなみに秋に一緒に植えたチューリップとグラジオラスの球根も、次々と芽を出し成長している。

発芽率90パーセント以上!

私はグリーンフィンガーに違いない(笑)

 

現在、山の畑は、ほんとの山になってしまった。

かつて何軒もの村の方たちが畑をされていたが、高齢化でできなくなり、今では樹木に覆われ畑の痕跡もないくらいだろうと思う。

うっかり入ろうものなら、イノシシや猿に出くわすらしい。

あの、ほのぼのとした段々畑の景色も、かつての姿を知る人の心の中にのみある。

 

いばら姫

「鏡リュウジの占星術入門~月の相と星座で見るあなたの素顔」という講座に参加しました。

占星術については何の知識もない私、かろうじて自分の星座を知っている程度ですが、鏡リュウジさんはちょっと気になっていた。

というのも鏡さんは、ユング心理学にも造詣が深い方のようで、心理学の書籍の翻訳も多いことは知っていたので、占星術と心理学がどう共存しているのだろうと興味があった。

 

今回初めて知った「月の相」というキーワード。

これは「生まれたとき、空に浮かんでいた月はどのような形をしていたか」というもので、八つに分かれるそのタイプによって、意識と無意識のバランス、パワーを発揮しやすい状況、葛藤を抱きやすいポイントなどを知り、人生に役立てようというもののよう。

私のタイプはファーストクオーター、新月から満月に向かう中間あたり、上弦の月の頃の生れとわかった。

光が強くなる頃で、本能から行動に向かう、思春期から青年期に入る、チャレンジする、そんな特徴を持つらしい。

太陽が表す「意識」よりも月が表す「無意識」の影響が強いという。

なるほど……

 

月の相などの占星術と、ユング心理学はどう絡まってくるのだろう。

鏡さんのわかりやすい解説で、その二つの領域の相性のよさ、相互にみる面白さを味わうことができた。

なかでもグリム童話の「いばら姫」の解釈はとても面白かった。

ユング心理学の「意識と無意識」「象徴」などの重要な概念をキーワードに「いばら姫」のお話をひもといていく。

例えば意識と無意識をそれぞれ象徴するものが、要所要所でふんだんに登場し、暗示したり運命を左右していくさま。

表のストーリーの裏でパラレルに動くもう一つの物語。

 

「いばら姫」の一節を紹介すると……

魔女によって15歳で死ぬ呪いをかけられたオーロラ姫、一人の妖精の機転で死は回避されたが、お城ごと100年の眠りにつく。お城はいばらに覆われ、100年間時の止まった世界となる。その間、美しいオーロラ姫が眠る城のうわさを耳にした幾人もの王子様が姫を助けようと、いばらに堅く囲まれたお城に挑むが、まるで生き物のようないばらに絡まれ、哀れにも命を落とす。やがて決して近づいてはいけない闇の城となる。

ところがあるとき、一人の王子様がみんなの制止もなんのその、オーロラ姫を救いにお城に近づく。すると不思議なことに幾重にもからまりお城を覆いつくしていた、いばらがするするとほどけていき、お城はかつての姿を現した。まさにそのときが100年の呪いがとけるときだった。王子様は何の苦労もリスクもなく、オーロラ姫を救い出し幸せな結婚をする。

これまでに命を落とした幾人もの王子たちと最後の王子は何が違ったのか。

命を落とした王子は自分の力で強引に運命を変えようとした結果、うまくいかなかった。

最後の王子は、たまたま機が熟したその瞬間に行動を起こした結果、外の力によって上手く成し遂げられた。

この王子は、内なるものと外とのバランスがよく、自然の流れにうまくのって生きているタイプだったのでしょうか。

示唆にとんだ話だと思う。

もともとグリム童話は、人々の口伝えにより残ってきた物語だという。

人の世のある面を巧みにうつしだす、リアルな物語なのかもしれない。

 

さて私が「いばら姫」と出会ったのはディズニーのレコードを通してだった。

幼いころくり返し聴いていた「眠れる森の美女」というディズニーのレコードの原作は「いばら姫」

お話と音楽が一緒になった、臨場感あふれるキラキラしたレコードだった。

残念ながらこのディズニー版は、肝心のところが原作とかけ離れている。

登場する王子様は一人だけで、絶対的なヒーロー、魔女と戦って自分の力で運命を切り開き、オーロラ姫を助け出す。

物語の肝が別物になっていて、かなり残念な気がする。

できれば、幼い子にも原作の「いばら姫」にふれて欲しいと思う。

幼いながら、何か心に刻まれるに違いないから。

 

      月にもいろんな顔 (2022.11/8 皆既月食)

本の整理

本棚にいよいよスペースがなくなってきていたので、本の整理をした。

未練なく処分できる本もあれば、再読する予定もないのに置いておきたい本がある。

日本の近代文学や、世界的な文豪の作品も残しておきたい部類。

かつて若さからなる勢いで読んだ、トルストイ、ドストエフスキー、スタンダール、モーパッサン、ヘミングウェイ、ディケンズ、サガン……

これらの大作を読んでいた私は一体どこへ行ったのやら……

 

今となっては、あらすじさえ思いだせない作品もある。

それでも何かしら、作品から受け取った一つ一つは、心のどこかに息づいていると思いたい。

それらは、ふかふかとした心の層となって、知らぬまに助けてくれているのでは…なんて思っている。

当時は読みながら、時代や国も違うこれら小説の登場人物の心情に、こんなにも共感を覚えるのが驚きだった。

作者と時を超えてつながる瞬間でもあったと思う。

やはりその経験を思い出させてくれるこれらの本は、本棚の片隅に置いておこう。

 

二年前、フランツ・カフカの「変身」を読み返したことがあった(100ページほどの短篇でサクッと読めた)

あるセールスマンが、ある朝夢から覚めると、自分の姿が巨大な毒虫になっていることに気づくというあの小説です。

再読して、こんなに面白い作品だったのか…とちょっとした衝撃だった。

心理学的にみても、家族関係、アイデンティティの問題など、もうあらゆる要素満載。

毒虫に変身してしまった主人公を前に、両親と妹の右往左往、力関係の変化から目が離せなかった。

それに時代背景や、経済優先の社会風潮など巧みに絡められ、もう見事というしかない。

ストーリー全体を通して、巨大な毒虫という象徴が表すもの、そしてその死がこちらに迫ってくる。

10代のときも、この奇想天外な設定をそれなりに面白く読んだと思うが、この年齢だからこそ味わえるものがあった。

今、もう一度パラパラとめくって、また読みたくなっている。

 

本の整理をしていると思わず手がとまり、今の私を誘ってくる本がある。

ふたたび機が熟したのかも知れない。

そんなこんなで思ったほど処分できなかったが、それでもしばらくは心配ないくらいのスペースができた。

安心して新しい本も買おう!

ちょっと爽快な気分です。

 

      ぴよりんプレート かわいい♪

境界があいまい

新しい年を迎えました。

年明け早々の突然の大きな災害に言葉を失うようです。

ここ名古屋も震度4と、あまり経験することのない揺れでした。

物理的なエネルギーの伝播とともに、こころや魂といった精神的なものの伝播を想っています。

縁者か否かとか、物理的距離とか、そんなものを超えるものがあることを信じたい。

全ての現象はつながっているとすれば、まず自分にできることは、目の前にあることを精いっぱいやっていくことだと思う。

 

東日本大震災のときに、こう打ち明けてくれた人がいた。

「被災者には日本中の人が心を寄せ、助けが入る。それなのにこんなに苦しい私のことは、誰も気にかけてはくれない。こんなこと思っちゃいけないけれど、余計に孤独を感じる」

被災地のことを思うと同様に、近くのことを忘れてはいけない。

 

境界を超えて、みんなが何となくつながっている社会は、強くやさしいのではないかと思う。

 

私自身は、全てにおいて境界があいまいな世界を生きている感じがする。

例えば私はよく夢をみる。

夢での暗示、予知、人と同時に同じ夢をみる、なんてことがあり現実世界と重なってくる。

夢もまぎれなく自分の一部だと思うから、それも取り入れて生きるのが私にとっては自然に思える。

 

仕事とプライベートを分けて考えることもしていない。

生活のなかのどのシーンでも、私は私でしかない

生者と死者の区別も気持ちの上ではあいまい。

亡くなった人たちとも心の中ではしばしば一緒にいて、姿を見、声を聞いている。

人と自然というふうな分け方もあまりない。

動物や植物にも普通に話しかける。

物事をきっちり分けないで、遊びを残している。

そんなふうにやっていると、何かインスピレーションみたいなものが冴えて助けられる感じがある。

自分の内の流れと外の流れが呼応し、無理なく生かせてもらえる気がする。

 

「ちょっとこの人、何を言ってるのだろう……」

なんて言われそうですが、まあこれが私なのでしょうがないです。

 

今年もどうぞよろしくお願いします。

        今年のカレンダーは藤城清治さん

巣ごもり前

2023年もあと一日となりました。

今年は年末年始を家で過ごすので、巣ごもりの準備をしているところです。

まず買ってきたのは、数冊の本。

「指先から旅をする」藤田真央

大好きなピアニスト藤田真央さん、まだ彼が10代だったときのコンサートに行って以来、魅了されている。

 

「山怪 朱 山人が語る不思議な話」田中康弘

シリーズで持っている本、4年半ぶりの新刊が今年出ていて、読みたいと思っていた。

 

「いたみを抱えた人の話を聞く」近藤雄生(聞き手) 岸本寛史

ノンフィクション作家と緩和ケア医の対話の記録、たまたま手にとりパラパラめくって、読み応えを直感した。

 

「おしえて志麻さん お助けレシピ100」タサン志麻

お料理の写真がとにかくおいしそう! このお休みに伝説の家政婦さんのレシピを試してみようではないか…

 

どの本もすぐにでも読みたくて、読む順番が決められない。

こっちをちょっと読み、あっちをちょっと読み、また別の本をちょっと読んでみる、みたいなことになっている。

次に読むときには、また前のページをめくり、記憶を呼び戻すところから。

難儀なことです……

 

これも巣ごもりのお供、大和葡萄酒の一升瓶ワイン。

一日の終わりのグラス半分のワイン(量は飲まない)は私をねぎらってくれる。

これがあるだけで、ちょっと幸せな夕餉となる。

 

あとは大みそかに食べもの関係を調達すれば、ほぼ巣ごもりの準備は終わる。

 

大掃除はやり残しているが、目をつぶろう(巣ごもりにさほど影響はないはず…)

それよりも一年なんとか過ごせたことを喜びつつ、2023年をゆっくりと見送りたいと思う。

 

皆さま、今年一年ありがとうございました。

時を経た旅

友人と京都で落ち合い、一泊の旅をした。

彼女は高校時代の友人で、二十歳頃だったか一緒に京都に行った思い出がある。

将来がまだまだ未知で、みずみずしい期待に溢れていたあの頃……

あれから40年近く時を経て、再び実現した京都への二人旅だった。

 

観光地を巡りながら話していると、あとからあとから若かりし旅の思い出がよみがえる。

新幹線のトイレでスカートが裂けて、京都に着いてすぐ、駅地下でスカートを買ったわ。

かさぎ屋でおはぎ食べたね、ちょうどTVのロケをしていて、「コント山口君と竹田君」と一緒に写真撮ってもらった。

かんざし買ったね、ちょっと塗りが剥げてたから迷ってたら、お店のおばちゃん、なんとマジックでサッと塗って売りつけたんだよ!

あぶり餅食べたね、宇治平等院の近くで。

へ? 宇治平等院なんて行ったっけ…

写真があるから間違いなく行ってるって!

上賀茂神社か下賀茂神社に行ったけど、あれはどっちだった?

それそれ、私もどっちかわからなくなってるー

エピソードはつきず、二人の記憶はどこまでも怪しいのだった。

 

そして今の京都は人、人、人…

大人になった今、すさまじい人ごみは億劫になっている。

時間、ルートを工夫して、うまく人の密をさけた。(大人旅は体力を温存しながらまわらないとね…)

 

京都に着いて真っ先に行ったのは東福寺(二人とも一番行きたかったところがたまたま一致した)

いつか見たいと思っていた「八相の庭」と呼ばれる4つの庭を堪能した。

 

北野天満宮は迫力の美しさ、着物姿の方も多くて、初詣のようなりんとした空気を味わった。

このあと晴明神社に行ってパワーチャージ、晴明さんになれる顔出しパネルがあった。

「写真とってあげるー」と友人に促され、喜んで顔を出す。

交代して彼女を撮ろうとしたら「私はいいわ」だって…(昔からこういうところあったよ…(-_-メ)

 

夜食にタルトタタンを買ってきて、ホテルでお茶する。

めちゃ美味しい!!(後で調べたら、ラ・バチュールという老舗の、本場フランスも認める本格的なものだった♡)

 

翌日は前回も一緒に行った大原、あのときは雪深い真冬の大原だった。

今回は晩秋の大原、落ち葉を踏みしめながら歩くと、冴え冴えとした空気が身体に染みわたり浄化されるよう。

大原三千院と宝泉院でゆっくり過ごした。

 

話が出てから、3年目にやっと実現した旅。

身内の不幸や親の介護など、どちらかの都合が悪くなるくり返しで、ホテルをとったもののキャンセルしたこともあった。

そのうちにと思ってたら、なかなかその時は来ない。

 

いつ行くか? 今でしょ! (某、有名予備校のキャッチコピーに習って)

思い立ったら「今」を楽しまなければ……

球根を植える

秋の二日間、庭仕事に精を出しました。

叔母がスイセン、チューリップ、グラジオラスの球根を送ってくれたのです。

 

去年の冬だったか、野菜など送ってもらったとき、スイセンの小さな花束が荷物に忍ばせてあった。

もともとは実家の、海に面した山の畑に自生していたものを、叔母が株分けして持ち帰り、増やしたスイセンだという。

「私もいつか、ハタビラ(山の畑の呼び名)のスイセンを庭に植えたい、だから市販の球根は買わないの」

そんなことを叔母に話した覚えがある。

叔母はちゃんと覚えていて、ちょうど植え付け時期の今、球根を送ってくれたのだった。

しかもグラジオラス、チューリップの球根も。

これは頑張って植えるしかない!

 

まー、力仕事でしたね。

うちの土は大小の石が混じった砂利のような土。

更に土の中は、木の根がおびただしく張りめぐらされていて、それを取り除くのも一苦労。

石ころを取り除き、じゃまな根を引きちぎり、ふかふかの土にはほど遠いところで妥協した(きりがないので)

石灰や牛フン、培養土など、家にあった有り合わせのものを適当に配合し、土づくり終了。

そして10センチくらいの間隔で穴を掘り、ひとつひとつ球根を埋めていく。

全部で40個ほどの球根、あちこちに全部植えきった。

ついでに毎年種をとって育てている、スイトピーも蒔いた。

 

春には、可憐な花たちがいっぱい咲くといいなあ。

この冬は、春の楽しみでちょっとばかりホクホクと過ごせそう!

季節はめぐっていきます……

 

2023年11月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

軽井沢に行く

初めて軽井沢に行きました。

 

空に向かってふわっと抜けるような、開放感ある街の佇まい。

和と洋、動と静、暮らしと観光、新と旧、人の手による自然と太古からの自然……

それらが大らかに許容しあっている潔さ。

通りすがりの旅人である私をも、たちまち包みこむ懐の深さがあった。

 

さて、名古屋からは列車で片道4時間。

「特急しなの」と「新幹線あさま」を乗り継いで行った。

時間も限られるので、移動の旅にならないよう、行先は3か所ほどにとどめる。

 

まず向かったのは白糸の滝。

バスで向かう途中、ミズナラやハルニレが生い茂る壮大な森に圧倒された。

 

夕方、旧軽井沢通りあたりを散策。

にぎやかな表通りを一本入れば、昔からのひっそりとした通り、地元の方の静かな生活がある。

こういうところ、あてもなく歩くの好き。

 

次の日、ホテルの朝食前に歩いて雲場池へ。

周りの遊歩道をゆっくり歩いて回る。

カモやカイツブリが遊び、鏡のような水面に紅葉が映る。

 

次の日は、かねてからの念願、軽井沢千住博美術館へ。

駅から循環バスに乗って40分、なんと乗車料金は100円!

木立の中に奥ゆかしく佇む建物。

外光が降りそそぐ開放感あふれる館内、床は土地の起伏をそのまま生かしゆるやかに傾斜していて、自然の中を散歩しているよう。

他の美術館と違って、足腰が疲れないことに気づく。

新作「浅間山」が公開されていた。

千住博さんの作品を伝える言葉が私にはみつからない。

一枚の絵が放つものの底知れなさに、ただ驚かされる。

 

楽しいことはあっという間に終わり、帰りの列車の中。

軽井沢駅の売店で、井筒ワインとこの地のチーズを手に入れることは忘れなかった。

 

それはさておき、時々はいつもと違う場所に身をおいて、新しい体験をしてみることは大切だなと思う。

自分についてハッと気づくこともあったりして、ちょっとした旅もなかなかいいものです。