先月の話になりますが、JR髙島屋で開かれていた写真展「星野道夫 悠久の時を旅する」の初日に行きました。
その話を友人にしていたところ、友人も後日行ってみたとのことで、思いがけず感想など語り合うこともできました。
共通の体験を分かち合えるのは嬉しいことです。
写真展はすばらしかった。
入ってすぐの写真、果てしないツンドラの大地を埋めつくす何万頭というカリブーの群れに、早々と心をつかまれました。
同じ地球のどこか、アラスカでは今もこのような光景があるのだ……
その場にいるような臨場感。
ヒグマの子供が母親をちょっとさわって、安心している様子は人と何らかわりない。
白熊の瞑想しているかのような哲学的な表情。
ジャコウウシのユニークな顔と群れの迫力。
ムースが夏の終わり、袋角の表皮をはぎ落し、血みどろに垂れ下がっている異形の姿。
どの写真にも感嘆します。
なぜ星野さんにはこのような写真が撮れたのだろうと……
写真はもちろん、エッセイや、枠を超えた興味の広がりなど、その世界観にとてもひかれます。
星野さんの作品は、詩や物語のよう。
この世界は、境界などなくて、つながり合っていて、自分もその懐に抱かれていることを思い出させてくれます。
5~6年前、たまたま本屋さんでみかけた「旅をする木」を手に取って以来、著書を読むようになりました。
それらの作品は、すっかり私の癒しアイテムとなっています。
星野さんを通して、アラスカの大地や海、動物たちとつながれるような気がする。
エスキモーやインディアンの人々、その先祖の人たちの営みまでもが、遠い世界のことではなく、身近なものに思える。
ここにある現実はひとかけらにすぎないこと、そこからつながっているものは果てしないことを、気づかせてくれるのです。
それも本能的なレベルで……
そういえば、子どもの頃、いたくひきつけられた物語があります。
「エスキモー少年ティクタの冒険」というお話でした。
あらすじはこんな感じです。
少年ティクタはある日、割れた氷に乗ったまま海に流されてしまう。
このままでは死を待つのみの状況の中、ティクタのサバイバル能力がすごいんですよ。
アザラシの皮(だったかな?)を手作りの針で縫って、浮きボートをつくる。
狐の毛皮で防寒着か何かを作り(かなり記憶が怪しいが)、一人でたくましく命をつないでいくのです。
ピンチを淡々と受け入れて、工夫して目の前のことを行い、お手製の浮きボートで村に帰ってくるのです。
少年の叡智と、雄大な自然との調和みたいなものに憧れました。
子供の頃、エスキモー少年ティクタの世界にひきつけられた私は、今もかわらず、アラスカの大地、自然、動物、先住民族の営みにあこがれているのです。
いつか行ってみたいなあ……