昨日はカウンセリングの研究会でした。
事例検討をしているとき、家族の「食卓の光景」の話になりました。
居合わせたカウンセラー、幼い頃の食卓の思い出はさまざまです。
ある方は「そもそもみんなで食べてなかった、私はいつも個食だった」
またある方は「食事中いつも私だけ親に怒られて、勝手口から外によく引きずりだされた」
みなさん、なかなかのつわものです。
私も幼い頃の食卓の場面は強く印象に残っています。
一言でいうと、ご飯の時の父が怖い。
父がお酒を飲みながら、他の家族をけなし、攻撃することがしばしば。
そのターゲットは、ある時は祖母、ある時は兄、あるときは母、結婚前の叔母たち、時には父親である祖父さえも。
そのしつこい攻撃により、食卓の雰囲気はたちまち最悪なものとなったものです。
父に歯向かう者はなく、ひたすら嵐の通り過ぎるのを待つパターンでした。
食卓の光景は、その家族の特徴を象徴するような場面となっていることがあります。
現に私の家族の場合、食卓以外の場面でも、同じ構図で動いていました。
家族の中の力関係は、特に父の圧力が強かった。
みんなそれに反発するのでなく、避けて通ろうとしていたように思います。
家族の大切な行事でも、父の不在はかえって幸い、面倒な鬼のいぬ間にやってしまおうといった雰囲気がありました。
私もそうであったように「家族が集まり食事をする」という本来楽しいはずの場面が、ネガティブな思い出になっていることは少なくありません。
特に、耐えるしかすべを知らなかった子供にとっては。
実際には辛い食卓よりも、楽しい食卓の方が、その数倍あったのかもしれないのに。
後に、カウンセラーになるための教育分析(カウンセラー自身が自己を統合するためにカウンセリングを受けること)の初回で、幼い頃の食卓のことを早々に語ることになります。
兄が理不尽に怒られている横で、一緒に泣いたこと、涙でしょっぱいご飯の味、それが自分にとってどんな体験だったか。
「過去の事」と片づけずに、体験を語ること、心の力を回復するうえで、とても大切ではないかと思います。
人の心はたくましいものです。
さて、みなさんの幼い頃の食卓の光景は、どんなものだったのでしょう・・。
ちなみに父は、今ではすっかり穏やかな人となりました。
庭のエゴノキにモズの早贄を見つけました。
トカゲよ、写真に撮ってごめん。
※早贄→鳥のモズ類が捕えた獲物を樹木のとがった枝など鋭利な物に突き刺しておく習性