過去の猫たち

トラ、コトラ、ヤマ、ビール

昔、実家で飼っていた懐かしい猫たちの名前です。

ビックリネコ、タヌキネコ、イチ、ヘン、オオコネコ、チャップリン、シロ

これらは飼ってはいないけれど、勝手に住み着いていた猫たちの呼び名。

家族の誰かが適当に呼び始め、いつのまにか共通の呼び名となっていった。

実家は、昔も今も猫が集まる家です。

  道端ですり寄ってきた野良猫

村上春樹さんの「猫を棄てる」という新刊を読みました。

副題には「父親について語るとき」とあり、お父様について文章にされたものですが、一個人一家族の話でありながら(むしろ、そうだからこそ)強く語りかけてくるものがある。

この話には二つの、猫にまつわる思い出が、冒頭と最後に出てきます。

これら猫エピソードは、幼い頃の著者と父との思い出をみずみずしく伝え、その体験から学んだことは心の中に、ある種をまき、それは著者のメンタリティーの一部となっていったことがわかります。

一つめの話、小学生だった著者が父と自転車に乗って、海辺に一匹の大きな雌猫を棄てに行くが、家に戻るとさっき棄てたはずの猫が「にゃあ」と出迎えたこと、その時の父の表情。

もう一つは、やはり子供の頃、飼っていた小さな白い子猫が、意気揚々と庭の高い松の木に上り、降りられなくなった話。

一部始終をみていた著者は、父に事情を説明して何とか助けてもらおうとしたが、父にもなすすべがなかった。助けを求めるような情けない鳴き声は翌日には聞こえなくなり、その子ネコがどうなったのかわからない。

 

この二つのエピソードは、私の猫に関する思い出とどこか重なるところがあり、ものすごく身近に感じられました。

それは、猫が間に介在した私と家族との体験でもある。

例えば小学生の時、兄とトラを拾った朝のこと、許しが出るまでしばらく二人で納屋に隠し飼っていた、あの夏の日々。

あまりにいたずらが過ぎるコトラ(トラの子)を兄と棄てに行かされたこと、次の日に飼う許しを得て迎えに行ったがいない、あきらめて帰ろうとしたとき、がけの穴の中から「にゃお」とコトラがそれは大きな声で鳴いたこと。

父と漁師町の海岸へ迷いネコを棄てに行ったこと(ここなら魚ももらえて幸せだろうと話し、互いに罪悪感をうすめた)

リボンをつけて家にきた子猫のビール、数日後突然いなくなった。あまりにやんちゃだったので、誤って畑の井戸に落ちたのかも知れないとみんなで話した。

普段は考えることもないけれど、どの猫のことも心の片隅にしっかりと刻まれている。同時にその時の家族の声や表情も、リアルによみがえります。

家族って、一匹の飼い猫に関する共有の出来事一つからでも、それぞれの深い体験をしているのですね。

 

「猫を棄てる」引き込まれて一気に読みました(1~2時間で読めてしまう ノスタルジックな挿絵もすごくいい)

猫の話は象徴的なエピソードとして、また暗喩的な役割をしているけれど、その奥にある個人的物語の底知れなさこそが深く読みたいところだと思います。

戦争などを含む時代の背景が、人の生き方や精神をどれほど深く大きく変えてしまうか、内面に宿ったものが次の世代に否応なく持ち運ばれていく事実。

個人的な物語は同時に、世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもあること。

著者あとがきの一文に「でも僕としてはそれをいわゆる(メッセージ)として書きたくはなかった。歴史の片隅にある一つの名もなき物語として、できるだけそのままの形で提示したかっただけだ。そしてかつて僕のそばにいた何匹かの猫たちが、その物語の流れを裏側からそっと支えてくれた」とあります。

 

何匹かの猫たちが、物語の流れを裏側からそっと支えてくれた……

なんだかすごくわかる気がする。

私もきっと、過去の猫たちにそっと支えてもらっている。

  この日は10匹以上の野良猫と出会った

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