十数年前、心理学の基礎を学んでいたとき「不確かさの受容」という言葉に目がとまりました。
論理療法が目指す、精神的に健康な人の条件としての、9つの項目の一つとして示されていたものです。
その当時の私に刺さったからこそ記憶にとどめたわけですが、以降、私と相性の良い言葉の一つとなったようです。
子育て(この言葉にも少し違和感をもちますが)など不確かさの最たるもの。
将来どんな風になるかなんてわからないし、見届けられるわけでもない。
今を精いっぱい、一緒に時を過ごすだけ。
コロナ禍もあって、以前よりも確実に不確かなことが増えました。
今までの当たりまえが、必ずしも当たり前でなくなった。
帰省すれば施設にいる父にいつでも会いに行けたのに、面会制限で会うことができない。
この秋も、一度実家に帰ろうと思いつつ、色々と条件がそろわず、なかなか日程を決められない。
普段の予定をいれながらも、一方で帰省のタイミングを延々と探っている不確かさが隣にある。
自分の健康だって、不確かなものです。
いちおう元気と思っているけれど、身体の中まで見えないのでわからない。
不確かさは、落ちつかなかったり、不安な面もある。
ただ、生きていくことはそういうものだと思うのです。
絶対に確実なんてない、自分がコントロールできることなどほぼない。
外的な要素が大きく関わってくる。
社会の動き、人が織りなすコミュニティ、地球環境、時の流れ、ありとあらゆるものと相互のなかにいる。
多層的に動いている。
でもね、それはは救いだとも思うんですよ。
自分の行いがきっちりその単独の結果として返ってきたら…
先のことがが青写真のようにみえたとしたら…
私はちょっとやっていられないかも(それがたとえ好ましいものであったとしても…)
この世は案外うまくできているよ、と根拠もなく思っている私。
不確かさとともになんとか今日も過ごしております!