あの日に感謝

11月になり、一気に季節がすすみました。

来年のお庭のために、今日はスイートピーの種を植えようと思います。

 

さて、1週間ほど前、娘の誕生日でした。

娘にラインで「おめでとう」と送信したら、ちょうど家のチャイムがなり、ご近所の方に大きな鯛を2匹もいただきました。

あら、まるでお祝いのよう……

家族そろって鯛料理で誕生日をお祝いしたいところでしたが、娘は離れて暮らしているし、夫もその日いなかったので、秋の夜長に一人、鯛のお刺身をつつきながら、ワインを開けたのでした。

 

思い返せば、娘の誕生はなかなか大変なものでした。

予定日を10日過ぎても、生まれる気配がなく、みんなやきもきしました。

やっと陣痛が来て入院し、痛みに耐えながら一晩過ごして翌朝を迎えたけれど、一向に分娩が進まない。

陣痛促進剤、バルーンなどの処置をしても進まない、あまりの辛さに「無痛分娩にしてください」と口走っていました。

麻酔をして楽になったのもつかの間、その後の検査で、母子ともに危険な状態に陥っていることがわかりました。

「赤ちゃんが苦しくなっているので、帝王切開にしますね」とだけ私には告げられ、バタバタと手術室へ。

先生も看護師さんたちも殺気立ってる感じは伝わってきて、大変なことになっているんだな、というのはわかりました。

急きょ手術をサポートする医師が他院から駆けつけ、出産後大病院に搬送のため、小児科医と救急車も待機していました。

白状するとその状況の中、私は自分がこれ以上痛い目に合わないかとビビっていた。

よくドラマとかにに出てくる、私よりも赤ちゃんを助けて…という強いお母さんではなかった。

なので、無事に生まれた娘と対面したときには「最初から一本取られたね」と心の中でつぶやいた。

試練をくぐりぬけ、たった今この世に生まれ出た命の強さに、無条件に尊敬の念を覚え、自然とこうべを垂れていました。

 

娘には生まれるときに苦しい経験をさせてしまいました。

でも同時に、赤ちゃんの持っている逞しさというのは、ゆうにそれを超えてくるものだと感じました。

もちろん安産で、できるだけストレスなく生まれるに越したことはないかも知れません。。

私もそれを願って、自律訓練法やら、呼吸法やら、妊婦さん向けの教室にも参加しました。

でも実際には、何が起こるかわからない、人のコントロールには限界がある。

そんな神秘の世界と人の手が交錯するなかで、赤ちゃんはしっかりと自分で何かを選び、何かを手放し、生まれてくるのだと思います。

 

どのようなお産でもいいではないか…と今は思うのです。

自然分娩であろうが、陣痛促進剤に頼ろうが、帝王切開になろうが、たまたまそうだったというだけのことです。

生まれるときの唯一無二の体験を、自分に組み入れて、人生を歩んでいくにほかならない。

あれから20年以上過ぎ、あらためて、あの日のすべてに感謝……

 

    ここらで見かけない新顔さん

 

 

カバンを磨く

8年以上使っている、仕事用のカバン。

かなりくたびれてきました。

A4のファイル、重い本、水筒、はおりもの、何でもかんでも放り込んで、酷使してきました。

型崩れが進み、バッグの口のところなど、こすれて色が剥げてきている。

 

いつだったか、このかばんを持った自分の姿が、デパートの鏡にふいに映った。

周りのきらびやかな雰囲気の中、ふるぼけたカバンを持っている人……だった。

「そろそろ買い替えようかなー」一度は思ったけれど、結局その後も使い続けています。

 

時々革用クリームで磨くと、新品にはない艶となめらかさが出て、ちょっとほれぼれします。

使い込んだ風合いですね。

革が柔らかくなった分、手にも身体にもなじみ、使い易い。

 

先日の外での仕事の後、自分の中にモヤモヤとしたものが残ってしまった、ということがありました。

(その機関のルールがあるので、その中でどこまで自分のカラーを出せるかという葛藤があった)

帰宅後、なぜかカバンを磨いている私がいました。

革用クリームをとんとんと何か所かのせて、全体に伸ばす。

隅々にまで伸ばして、丁寧に磨く。

ダメージのある所は、もう一度クリームをのせて磨きこむ。

その日のことは、頭の中を浮遊していましたが、手は無心に動かし続ける。

磨き続けるうち、心がひたひたと穏やかな波で満たされるように、すーっと整っていった。

 

一方、カバンはつやつやと輝き、よみがえりました。

この古ぼけたカバンはもはや相棒、まだまだ力をくれます。

Oさん

実家に電話したら、お祭りの日でした。

「いいなあ」と思わず口にすると、「いや、祭りといっても、コロナがあるから、お宮での神事だけなんよ」と兄。

 

コロナがなくとも、近年は縮小傾向のお祭りです。

    担ぎ手不足のため台車に乗ったお舟様(2018年)

 

昔のお祭りは活気にあふれていました。

朝からドンドンと太鼓の音が鳴り響き、お昼ごろから、お舟様一行の大行列が現れる。

神主さんを先頭に、お舟様は、太鼓隊、子供の鉄砲隊、のぼり隊などを従えて村を練り歩く。

赤鬼、青鬼、だんご(獅子)は神出鬼没に現れる。

赤鬼が酔いつぶれて、青鬼だけなんてこともありましたね。

みんなで飲み過ぎて、行列の時間が大幅に遅れたり、民家の庭に乱入したり、なかなか自由なお祭りでした。

 

何十年か前のある年のお祭りの日、行列の中のOさんの姿にみんなが目を見張りました。

Oさんはその頃、60歳くらいではなかったかと思うのですが、普段から酒浸りで、今でいうアルコール依存症であったと思います。

いつも千鳥足で、目はどよんとしていて、人のいるところに近寄ってはくだを巻いていました。

そのOさんが、りゅうとした背広姿で榊を持ち、しっかりとした足取りで行列の先頭あたりを歩いてくるではありませんか。

「Oさん、今日はどしたん…えらいイメチェンして…」隣にいた叔母のびっくり顔を今も覚えています。

その日のOさんは、本当にかっこよかった。

私まで誇らしいような気持ちになりました。

 

Oさんはお酒のせいで、時々周りに迷惑をかけることがありました。

子供たちの書道教室に入ってきてくだをまき、若いお母さんたちの眉をひそめさせるというようなことが。

そんな時、Oさんの控えめな奥さんが、さらに身を小さくして連れ戻しに来られました。

子供の目にも切ない光景でした。

 

Oさんは、小学生の私と道で会うと、「お~、ノリ君の娘か」といつも声をかけてきました。

「もうちょっと、あっさりした服を着るとええよ」と言われたきは、ほんとうに自分でもそう思った。

 

Oさんとの忘れられない思い出があります。

学校帰りに村のよろづやの前を通った私を、お店で飲んだくれていたOさんが目ざとく見つけ、中に招き入れました。

「好きなお菓子を買うてやる」

小1の幼い私は、この状況にどうしていいかわからず、じっとしていたと思います。

するとOさんは店で一番高そうなお菓子、イチゴのショートケーキ(おそらくヤマザキの)を手にして、私に持たせました。

どうしていいかわからないまま、イチゴのショートケーキを手に店を出ました。

多分、ありがとうも言えなかった。

ケーキを持った私は、寄り道して、自分ちの畑に行った。

そして、畑のこんもりと土が盛ってあるところに、ケーキを棄てたのです。

白いクリームがぐしゃっとつぶれて、黒い土にまみれたのを、しばらく眺めていました。

なんともいえない気持ちで眺めていました。

 

なぜ、あのようなことをしたのかよくわかりません。

「Oさんにもらった!」と喜んで家に持ち帰ってもよかったのに、小1の私はそうしなかった。

Oさんの気持ちを無にしてしまったこの出来事を思うと、今でも悲しいです。

 

Oさんはもともととても頭の良い人であったのに、戦争から帰ってからお酒におぼれ、あんな風になってしまったのだと聞いたことがあります。

村の人の多くは、Oさんのことを悪く言わず、受け入れていたように思います。

 

お祭りがきっかけで、今日はOさんのことをつらつらと思いだしています。

いつか私もあちらの世界に行ったら、大人同士の話ができるでしょうか。

いや、やっぱり子供のまま「ノリ君の娘」で会った方がいいのかな……

 

8年たった

9月は、カウンセリングルームを始めた月です。

いつの間にか8年たちました。

よく続いたものです。

ありがたいことに、ここでのカウンセリングだけでなく、外への広がりも生まれています。

人の力のおかげです。

その時々で、引き揚げてくださる人がいました。

海のものとも山のものともわからない駆け出しの私に、ご自分にきた仕事を紹介してくださった方、さる団体に推薦してくださった方……

どなたも「気楽にやってくれればいいからね」とみじんもプレッシャーをあたえることはなかったです。

 

もともと受け身傾向の私は、なかなか自分で前に出ていくことができないほうです。

子供のころから、先生たちに「もっと積極的に…」とよく言われた。

そんな私も、ごくごくまれに能動的な行動をするのですが、自分でルームを始めたこともその一つ。

心理の専門学校を修了し、カウンセリングルームやってみようかなーと何となく思い立って、できることから動き出しました。

とりあえず、手作りのチラシと名刺を作ってみた。

このころは、日本カウンセラー学院のスタッフKさんに、とても助けられました。

私のやりたいことを現実と照らしながら整理し、具体的で的確なアドバイス、自分では気づかない可能性も示唆してくださった、これらは今でも私の中で指針となっています。

kさんはまた、会話の中にさりげなく魔法の言葉を忍ばせ、将来への仕掛けまでしてくださるところがありました。

人を育てるプロフェッショナルでしたね。

 

私自身、自分で始めたことながら、この小さなルームがどのように育っていくんだろうと、野に放って俯瞰してみているような感覚がありました。

8年たった今、少しづつ根を張り、野の自然と、通りすがりのハイカーさんたちに育ててもらっているなあ、と思います。

 

今日もここにいることをすべてとして、これからも続けていこうとしています。

 

     舌をペロッとだして爆睡中… 近所の老猫

 

水槽の騒動

ここ1~2か月、水槽のことでバタバタしました。

5月、10年飼った最後のアカヒレを見送り、水槽は空っぽになっておりました。

それから一か月ほどたった7月の初め、やはり生き物がいないのは寂しいので、アカヒレ5匹とコリドラス一匹を迎えました。

新しく砂利をしき、水も全て入れ替えて、新しい仲間たちでスタート。

 

最初は順調でした。

アカヒレはみるみる大きくなり、コリドラスは愛嬌のある姿で、底を巡回し餌をモフモフ。

ところが3週間ほどたった時、一匹のアカヒレがやせ細って、水面近くでじっとしていることが多くなった。

しばらくして死んでしまいました。

「やはり初めから弱い個体はいるものだ……」と思うことにした。

今まで、生き物との相性の良さに自信を持ち、またそれを吹聴してきたものですから(このブログでも自慢げに綴った)、自分の飼い方が悪いとは、素直に認めたくなかったのだと思います。

そのうち、また一匹のアカヒレが同じような経過をたどって死んでしまいました。

 

どうも水質が悪いらしい……

認めないわけにはいきません。

水槽の水を1/3ほど変える作業を、2~3回繰り返しました。

それでもどんどん目に見えて、水が濁っていく。

 

一番気になったのは、サカマキガイの大量発生。

コリドラスとアカヒレを購入したときの水に、サカマキガイも一緒に紛れていたのかも知れません。

サカマキガイは日に日に大きくなり、水槽のガラスや水草に透明のゼリー状の卵を産み付け、どんどん繁殖していきました。

前回アカヒレを飼っていた10年では、見たこともないゼリー状の卵。

「これはどうしたものか…」と手をこまねいているうちに、どんどん孵化して爆発的に幼貝が発生する、その間にも成貝は次の卵を産み付ける、という悪循環になっていました。

 

これは本腰を入れて、対策をしなければ……

まずはサカマキガイをとりのぞこう。

この大量のサカマキガイのフンや、酸素消費が水質悪化の原因になっているに違いない。

そこで別の水槽に水を張り、サカマキガイを網ですくっては移す、すくっては移す、を毎日続けた。

同時に水の一部入れ替えも続け、水質浄化を試みましたが、すでに手遅れだったか、残りのアカヒレも弱っていった。

とうとう3日続けて、残り3匹のアカヒレも失ってしまいました。

 

やはりフィルターをつけるべきだったか……

実は今まで、水槽にフィルターを付けていなかったのです。

前回の飼育は、フィルターなしでも、水の小まめな入れ替えやバクテリアの調節で、あまりに上手くいったため(実際にとても長生きした)このやり方でいいのだ思い込んでしまったのです。

フィルターは音がうるさいに違いないし、シンプルに飼育できるならそれが一番良いではないかと。

 

自分の考えをリセットして、倉庫にしまい込んでいたフィルターを初めてつけてみました。

取説によると、不織布に覆われた活性炭入りのろ過材が水質を浄化し、匂いや汚れも吸着してくれるらしい。

他にも、「バクテリア付きろ過材」というものを買ってきて、フィルター内と水槽内に10個ほど投入。

水槽に沈めた素焼きの壺や、カニやカメの形の陶器のミニチュアにこびりついてたコケは、本気で磨いて落とした。

生き延びたコリドラスを守るために、できるだけのことをしてみました。

すると2~3日後、劇的に水が澄んで、見るからに健康的な水槽になった。

おまけにフィルターから流れ落ちる水の音、水槽の中におだやかな水流が生まれ、こちらまで癒されるよう。

 

コリドラスは、より生き生きして元気になったようにみえる。

このまま、元気に過ごしてほしいものです。

 

今回のことは、反省しました。

たまたまの成功体験からくる思い込みで、手立ても遅れ、アカヒレたちを犠牲にしてしまいました。

命を預かる以上、勝手な思い込みや、「明日でいいか…」は通用しないです。

私の心も、この1~2か月とても影響を受けていたものと思われます。

アカヒレの夢を何度も見ましたし、サカマキガイの大量発生イメージが、時おり頭の中を浮遊していました……

 

 

泥棒をみて縄を

ご近所の小学生の兄弟、朝から大きなビニールプールで喚声、水しぶきをあげています。

この世にこれ以上の楽しいことはない、というくらいのはしゃぎよう。

いいなあ、私もはるか昔に覚えがある。

きっと夏休みの宿題も済ませ、残りわずかな時間をおう歌してるのでしょうね。

 

ところで、うちの娘は宿題をためる常習犯でした。

8月31日と言えば、娘が一年の内で一番机に向かった日です。

おおむね手間のかかる宿題はすべて残っている。

「あっ、まだ習字を書いてなかった」

そして硯や墨汁を机に広げてから、のたまうのです。

「あっ、半紙が無かった」

そして31日の夜、閉店間際のお店に半紙を買いに走る……

そんなことばかりしてましたね。

 

宿題は深夜になっても終わる兆しなく、無情にも9/1がやってくる。

ただ、小学校では「二日間に分けて夏休みの宿題を出す」というありがたいシステムだったのです。

そのおかげでなんとかなっていた記憶があります。(いや、何とかなっていなかったのかもしれない、自信なし)

 

娘のそんな様子を目にするたび、「泥棒をみて縄をなう」とはこのことだ、と思ったものです。

あれは中学校の時だったか、高校の時だったか、登校前に、慌てた様子で探し物をしている。

聞けば、「テスト範囲を書いた紙がない…」だそうな。

テスト当日の話ですよ。

登校前に何かをさがしまわるのは、ほぼ毎日の光景で珍しくもなかったが、おぬしテスト勉強というものもしていなかったのか……(;一_一)

 

中3の時の国語の授業では、好きなことわざとその理由を、クラスのみんなの前でスピーチするというのがありました。

発表前夜になって、すっかり忘れていたその課題を思い出した娘、急には好きなことわざを思いつかない。

「ま、明日は明日の風が吹く、なんとかなるよ」と、うかつにも声をかけた。

娘はちゃっかり「明日は明日の風が吹く」のことわざについてスピーチしたという。

「何も準備できてなかったけど、こうして今スピーチしてるじゃないですか、なんとかなるもんです」みたいなことをその場で思いつくまましゃべったら、幸か不幸かそれが大受けしたらしい。

 

こうして「泥棒を見て縄をなう」傾向はいまだ続いているもよう。

大学のネット提出の課題は、だいたい締め切り時間の数十秒前、たまに半日も前に出そうものなら得意になっている。

対面授業での発表の資料は、当日の朝に間に合わず、開始ぎりぎりまで大学の構内でパワーポイント作成などしているらしい。

 

私は、まあまあ計画的にやるほうなので、娘には随分やヤキモキさせられてきました。

「もう少し余裕をもってやろうよ」と事あるごとに言ってきましたが、変わりませんでした。

ここまできたら、もう好きなようにやっておくれと思ってます。

この呑気さもまた、彼女の強さではないかと。

 

人に何かを求めるとき、自分の不安からきていることが多いのですよね。

 

    5月に挿し木にしたバラ、ぐんぐん伸びている

川の匂い

2年ぶりに母方の先祖のお墓に参ってきました。

広島県の山あいの村、山野町というところです。

実家の兄と急に思い立って出かけました。

 

山の斜面の集合墓地からは、村全体をほぼ見渡すことができます。

子供の頃、毎年夏休みに避暑に訪れていた懐かしい風景。

夏休みに滞在中は、いとこたちと毎日のように泳ぎ、魚とりをしたものです。

村の中央を小田川という一級河川が流れ、三角屋根の保育園や、プール付きの小学校、川沿いにいくつかの商店も並んでいて、郵便局や美容室まである。

田舎ではありましたが、子供の目にはちょっとした文化も感じるところでした。

なにしろ、自分の家は瀬戸内海の小さな入り江の何もない村で、唯一のよろず屋には漫画本すら売っていなかった…

それでも父方は海、母方は川、それぞれの自然と文化を享受することができた子供時代は、今思うとなかなかに贅沢ですね。

 

お墓参りの後、かつて泳いで遊んだ川に行ってみました。

道路から川を見下ろした瞬間、ふわっと川の匂いが立ち上ってきました。

「あー、山野の川の匂いじゃ」と兄

「うーん、山野の川の匂い……」私も思わず口に出る。

川の匂いに誘われ、二人とも一瞬、数十年前の子供時代にタイムスリップしたのでした。

 

川から歩いて1分、かつて毎年夏に滞在した母の実家のそばまで行ってみました。

懐かしい母屋、今では人手に渡り、他人の家となっています。

20数年前、祖母と伯父が相次いで亡くなり、身内に住む者もなくて手放したのですね。

子供の頃滞在した離れと、隣にあった蔵はなくなって更地になっていました。

家の周りを囲っていた土塀も、残骸といった趣で少し残っているのみ。

年月の経過を思うと同時に、古い母屋を大事に保存して住んでくださっていること、ありがたく思いました。

 

母は生まれ育ったこの土地を愛してやまず、特別な思いを持ち続けていました。

五感に刻まれた大切な記憶なのだと思います。

 

五感と言えば魚類は嗅覚が発達しているそうです。

海を回遊したサケが、生まれた川に帰ってくるのは、川の匂いをかぎ分けているからだとか。

水中のアミノ酸組成を嗅ぎ分け、その匂いの違いを道しるべとして、正確に生まれた川に戻ってくるのだそうです。

すごいですね。

 

私と兄が思わず「山野の川の匂い…」とつぶやいたとき、種を超えて魚になっていたのかも知れません。

 

 

曾祖母

兄と会話中、あるきっかけで、幼児時代の私の話になりました。

その頃の私を物語るエピソードの一つに、「キーッとなって鉛筆や割りばしをぎりぎり噛む」というのがあります。

はい、覚えていますよ。

自分を押し通せない時、内に吹き荒れるものを持て余して、そばにある鉛筆などをくわえてぎりぎりと噛みしめる。

私の記憶では、そのような癇癪な姿を周りが面白がるので、5歳くらいになると半分は期待に応えてやっていたのではないかと思っていました。

ところが兄の見方は違い、「あれは、ホンマににしんどそうだったで。すさまじいエネルギーを出して、消耗しとったわ」と言うのです。

3歳年上の兄の目にうつっていた幼児の私が、リアリティを持って迫ってくるような感じがしました。

なかなか大変な子供だったのだ……

 

久しぶりに、母が綴ってくれた赤ちゃんの日記を開いてみました。

私の誕生から小学校入学までの日々のことを、仔細に書き残してくれていて、読むたびに発見があります。

あらためて1歳~5歳までの記述を読んでみました。

頑固、わがまま、執念深い、強く自分を押し通そうとする、過敏、神経質、集中力がある、数々のエピソードと共にそれらのキーワードが繰り返し出てきます。

どうかこれらの性質が緩和され、優しく素直に成長して欲しいと、母は祈るように綴っています。

そして、この性質はひいおばあちゃん(曾祖母)が甘やかしすぎるからだろうか…と悩む記述もたくさんありました。

曾祖母が私を甘やかしていたとは、意外でした。

私には甘やかされたという感じはなくて、淡々とそばにいてくれた印象なのです。

 

曾祖母は、その当時80を過ぎた隠居の身で、私はほぼ彼女の子守で育ちました。

私が小学校にあがる春、亡くなっています。

曾祖母に関しては、2~3の断片的な日常の一コマと、お葬式で最後のお別れをした場面の記憶があるくらいでした。

あとは、母や叔母からの後々の話で、記憶にとどめている感じです。

今回改めて日記から感じ取れたのは、曾祖母が私に与えてくれたものの大きさでした。

10人くらいの大家族の中、やんちゃな兄にいつもちょっかいを出され、大人たちにはかわいがられもしたが、その強情な性質ゆえに叱られることも多かったらしい私。

曾祖母だけは、そんな私をそのまま受け入れ、無条件にそばにいてくれたのではないか。

それは何とありがたいことだったでしょう。

 

3年ほど前の夏、実家に掛かっている日本刺繍の額(祖母の手によるもの)をスマホで撮影しました。

その画像をみて、ギョッとしました。

だって、その写真に亡き曾祖母が写りこんでいるではないですか!!

そういえばこの部屋は、かつて曾祖母の部屋だった… ひえー……( ゚Д゚)

 

10秒後に気づきました。

なーんだ、これ私じゃん!

スマホで撮影する私の顔が、額のガラスに写っていたというわけ。

びっくりしたなあ、もう (;´∀`)

でも似ていたんですよ、今まで気づかなかったけれど。

顔の輪郭、目のくぼみ具合、とっさに「ひいおばあちゃんだ!」としか思えなかった。

思っていた以上に私と曾祖母の縁は深いのだと思います。

曾祖母が没後50年にして、それを知らせてくれたのかも知れません。

 

    4~5歳頃の絵 家と木と人が描かれている。

まるでHTPテストだ。

 

名も無い日

一年半ぶりくらいに映画館に足を運びました。

『名も無い日』

ニューヨークで写真家として活躍していた主人公のもとに届いた弟の訃報。

家族で一番優秀だった、そして誰よりもやさしかった弟。

安易な解釈や評価を一切拒否する、深い映画でした。

 

全体が「わからない」に満ちている。

遺された親族、それぞれの心に「わからない」がめぐる。

「わからない」が、こちらにも問いかけています。

心の中心を射るように……

 

切ない場面がいくつもありました。

弟が一人暮らす実家に久しぶりに帰った主人公は、ゴミだらけになった家を片づける。

黒ずんたスリッパを買い替え、汚れたタオルを変え、住み着いた猫用のお皿やキャットフード、ゴミとしかみえないおびただしいガラクタを棄てる。

しかし、弟は収集前のゴミ袋から、それらを拾い上げ、元のところに戻している。

彼にとっては、ゴミに囲まれたその空間こそが、自分を守る唯一の安全場所で、ガラクタの一つ一つは、生きていくためのよりどころでもあったのだと思います。

 

私もこの主人公と同じようなことをしてきました。

心のバランスをくずし、掃除をしなくなった母に変わって、帰省の度に自分勝手に実家を片づけた。

物を勝手に捨て、新しいタオル、スリッパに変えた。

半分は自分を納得させるために、やっていたのだと思います。

両親は「ありがとう」と言ってくれましたが、手放しで喜んでいるわけではないことは、感じていました。

 

家族であっても、わからない。

弟からニューヨークの兄に届いた手紙、限界の状況であっただろうに、本音や苦しさが気づかいのオブラードに包まれている。

兄の逃げ場を作っているのが、とても切ない。

 

自分の心すら 簡単にはわからない。

ましてや家族の内面を理解するなんてことは、到底難しい。

それでも尚、わかろうとしているだろうか。

家族ゆえに目を背けていることはないだろうか……

 

目を背けるわけにはいかない映画です。

日比遊一監督自身の身に起こった体験をもとにつくられたということです。

 

     名古屋駅前を見下ろすカフェで

生き物がかり

1か月ほど前、最後の一匹だったアカヒレがとうとう死んでしまいました。

アカヒレの寿命が2~3年といわれるなか、何と10年の長寿。

10年前、10匹で飼い始め、5~6年で5~6匹になり、2年くらい前に2匹になり、この1年は一匹になっていました。

庭のスイートピーの花の下に埋めて弔いました。

主を失った水槽は、1か月そのままにし、家族にもアカヒレが死んだことを、たまたま言わないで過ぎていた。

(というか、いつ気づくんだろうと意地悪な気持ちもちょっぴり芽生え……)

 

先日やっと水槽を丸ごと洗い、庭に干していたら、やっと気づいた夫、「アカヒレ死んだん?」だって。

ほーら、関心がないんだなー、毎日水槽のそばを通っているのに、まるで見ていない。

生き物との相性はこの違いだなと、思ったものです。

何か生き物を飼っていると、日に何度も様子を見ずにはいられない私。

いつのまにか、我が家の「生き物がかり」となった。

生き物の「採集がかり」は娘、子供の頃は、いろいろ採ってきたものです。

成虫だけでなく、カマキリの卵、アゲハの幼虫、ヤゴ、クワガタの幼虫、アマガエル、トカゲなども。

最初こそ、みんないそいそと昆虫ゼリーを買ってきたり、ヤゴのために冷凍赤虫を買ってきたりするのですが、そうやってみんなで準備した飼育ハウスも、いつのまにか「ただ置いとくハウス」になる。

 

気がつけば、私一人が黙々と世話をしている。

クワガタの飼育水槽に霧吹きをしたり、ヤゴにアカムシを与えたり、蝶の幼虫に新しい葉っぱを与えたり。

素人の世話ながら、ヤゴはトンボになり、アゲハの幼虫は見事なアゲハとなり、すべて外の世界に還っていきました。

いろいろ生き物を飼ってきて思うのは、生き物というのは、正しい飼育法だけでは上手くいかなんじゃないかということ。

興味を持って見続ける、心を寄せ続けることがとても大事なんじゃないか……と思うのです。

そして世話をしているこちらが優位なんじゃなくて、きっと小さな命から何かをもらっているのは私の方なんでしょうね。

 

    イトトンボが2匹 色違いで…

 

    大津 竹林院の邸宅からお庭を眺める