夏みかんマーマレード

夏みかんのマーマレードを作った。

2月だったか、娘が農業施設の収穫体験で採ってきた夏みかん。

そのまま食べるには酸っぱくて持て余していた。

それでもハチミツをかけて7~8個は食べたが、その後は果物好きの我が家でも誰も手が伸びない。

 

数か月たち、マーマレードにしてみようと思い立った。

確か「お菓子大百科」という本にマーマレードの作り方が載っていたはず。

レシピを参考に調理スタート!!

マーマレードを手作りするのは初めてだ。

皮の苦みを水につけてほどよく抜いたり、加熱前にグラニュー糖をかけて一晩おくなど、なかなか手間暇かかるのですね。

手をかけたかいがあって、極上のマーマレードがたくさんできた。

ついでにもうひと手間、皮をのぞいたバージョンで、シロップ煮も作った。

これも美味しいが、やはり皮も利用したマーマレードに軍配が上がる。

かんきつ類のジャムは、皮の苦みと歯ごたえを生かしたマーマレードが最高! と確信。

 

翌日、マーマレードとシロップ煮を贅沢に合わせた一口パイも作った。

これまた冷凍庫で持て余していた、冷凍パイシート。

リンゴのパイでも作ろうと、数か月前に気まぐれで買ったはいいけど、冷凍庫で長らく鎮座していた。

夏みかんも冷凍パイシートも、めでたく日の目をみてよかった!

 

 

マーマレードはトーストに塗り、ヨーグルトにかけ、日々楽しんでいる。

ペンションやホテルでも自家製ののジャムやベーコンなど出てくると、とても嬉しい。

手作りのものには、魔法のスパイスでも紛れこんでいるのか、ちょっと幸せを運んでくれますね。

 

「サイエンス」か「アート」か

カウンセラーとして質問を受けることがある。

「カウンセリングはどれくらい続ければいいのでしょうか」とか、「何回くらい通えば良くなりますか?」とか。

誠実に答えようとすればするほど、簡単に答えられない。

 

カウンセリングは「サイエンス」か「アート」かという議論がある。

「サイエンス」であるならば、実証性、再現性、客観性が重要となる。

科学的に実証された知見に則ってやれば、心のことも、ある程度は予測ができるといった感じだろうか。

(それにしても「人」や「心」という不確かなものを対象に、実験や検証を重ね、科学的アプローチを編み出し、臨床心理学という学問にまで昇華させてきた先人たちのチャレンジはすごい!!)

 

一方「アート」は抽象的で創造的な、予測を超えた流れのようなものではないかと思う。

あらゆるものがカウンセリングの要素となってそのプロセスに出入りする。

個々の神秘性、閃き、偶然の出来事、自然の采配、外界との関連性…

そもそも森羅万象はアートだと思う。

今、自分が生きていること、今朝、庭のトカゲが草むらから頭をもたげたこと、すべてはアートそのものではないか。

 

「サイエンス」と「アート」は二律的にどちらかというのではなく、共存しているものだと思う。

そのバランスの加減は、センスかもしれないし、職人仕事的なものかもしれない。

期を待つということも大切だと感じる。

一人では苦しくても、共に待つ存在がいることは大きい。

閉じられてびくとも動かなかった扉が、次々と開くときがふいに訪れ、驚いたりする。

 

一つお伝えしていることがある。

一人の中でグルグルまわって硬直している状態に、カウンセラーという新しい要素が加わると、ゆっくりとではあるかもしれないが、確実に動き始めるいうこと。

 

どちらにしても、冒頭の質問には、誠実に答えていかなければならない。

大風呂敷をひろげることなく、けれども確かな望みを共有して歩めたらと思う。

 

たけのこご飯と料理本

岡山の道の駅で、小さなタケノコをみつけたので、たけのこご飯を作った。

なんとタケノコの値段は130円!

小さいことは小さいが、家族で一回食べるには十分。

 

タケノコは美味しい。

毎年この季節には、たけのこご飯やお吸い物が食べたくなって作るが、なにしろ年に一回のことなので、翌年には茹で方すら怪しくなっている。

こういうとき、頼りにしている料理本がある。

「為後善光(ためごよしみつ)のお料理初めて」

結婚する時、母が持たせてくれた。

 

私の中では最強の料理本で、珍しい食材を手にした時など、強い味方となってくれる。

今までこの本のおかげで、山や海から採ってきたばかりの食材を、自分でなんとか一皿のごちそうにして食卓にのせてきた。

驚くほど多くの食材が網羅されている。

山菜であれば、タケノコ、ウド、ワラビ、フキ、ミョウガなど

貝類では、アサリ、シジミ、カキ、アオヤギ、アカガイ、ハマグリ、ホタテガイ、バイ、シッタカ、アワビ、サザエ。

たくさんの写真とわかりやすい解説も魅力。

和洋中の料理はもちろん、おやつにいたるまで、一冊によくこれだけのレシピを収めたものだと感心する。

為後さんの食材への慈しみと料理への愛、読者への思いやりを感じる一冊である。

 

今回もこの本を片手に無事、たけのこご飯にありつけた。

美味しかった!!

本との付き合いも長くなり、色は変色し、バラバラととれそうなページはテープで補修しながら使っている。

 

この本を頼りに、ときどきは野趣あふれる食材と格闘しようではないか。

本来の動物としての野生が刺激され、食べる喜びみたいなものを思い起こさせてくれる気がする。

体も喜ぶに違いない。

ノートパソコンを新調

新しくノートパソコンを買った。

今は、新旧のノートパソコンを行ったり来たりしながら、少しずつ移行を進めている。

 

アナログ人間の私にとって、パソコンの買い替えやら、それに伴う作業に大きな抵抗があり、今まで先送りにしてきた。

ところがそうも言っておられない状況になってきた。

旧パソコンに搭載されていたウインドウズ10は今年の10月にサポートが終わるという。

バッテリーも純正のものはとっくに廃盤となっていてる。

10年以上前に作成したホームページのバージョンは、とっくにサポートを中止していることがわかった。

今後を考えると新しいソフトに乗り換えて一から作り直した方がいいと、その道に詳しい方々からアドバイスを受ける。

そんなこんなで、やっと重い腰を上げて新しいパソコンを買ったのだった。

 

新しいパソコンはVAIOにした。

これが大正解!

購入後のサポートがとても充実している。

自分でどうにもならなくなると、サポートセンターに電話をかける。

どのオペレーターさんも丁寧でこちらのペースに合わせた対応でありながら、的確に解決に導いてもらえる。

自社の範疇を越えたサポート不可能なことに対しては、次に繋がるべきサポートを丁寧に説明してくださる。

そうやって新たなサポートを受け、解決へとたどり着く。

前回など、解決して電話を終了する時は、「まだ寒暖の差がありますので、どうぞお気をつけてください。」といたわりの言葉までいただいた。

私の作業の遅さやデジタル用語のおぼつかなさで、高齢者と認識されたに違いない(ほぼそうですけど (;^ω^) )

それにしても電話の向こうに頼れる人がいるのはなんてありがたいんだろう。

 

最近はいろいろな場面でAIの対応が増えてきた。

AIの自動音声に向かって問い合わせをする。

またはチャットで尋ねる。

即座に問題周辺のQ&Aが複数表示される。

でもピンポイントの答えはなくてあきらめる、といったことを何回か経験した。

 

やはり人の力はすごいと思う。

こちらの要領を得ない問い合わせにも、オペレーターさんはその想像力で問題を的確にとらえ、その温かさで安心させてくれる。

 

デジタルネイティブの世代から見ると、私のようなアナログ人間のサポートなど、やってられないのではないか…

そんな考えがどこかにあったが、そうでもないらしい。

知人が話してくれた、息子さん(20代)の発言は印象的だった。

「デジタル苦手な世代の人たちでも、一生懸命やろうとしている人たちはリスペクトするし、手伝いたいと思っている。残念だなと思うのは、苦手を理由に逃げてばかりいる人たちなんだ」

 

「デジタル苦手」のラベルを自分に貼り、避けているばかりでは進歩しようがないですね。

やれば意外とできるかもしれない。

新しいパソコンを友に、デジタルとも親しくなりたい春です。

 

P.S. 一面の菜の花畑の写真をアップしたかったけど、新旧のパソコンの連携の問題であきらめます。
前途多難だ……

花粉に黄砂に

20年前から花粉症になってしまった。
くしゃみ鼻水よりも、目が痒くなる。

昨日から花粉症と黄砂の飛散が盛んにTVでも報じられている。
今朝は目の痒みで目が覚め、そして日中も何度も痒いピークがくる。
掻きむしりたいが、余計痒くなるので、気休めに目薬をさすなどしてやり過ごしている。

昨日出席した会合で花粉症の話題になったとき、「黄砂と花粉の飛散の相乗効果で、花粉症がよりひどくなる」と話された方がいた。
そんなこと知らなかったなあ……と思って「花粉 黄砂」で検索してみた。
今まで知らなかったことがいろいろ出てくる。

そもそも花粉の飛散によってアレルギーが引き起こされるわけではないらしい。
花粉が空気中の大気汚染物質とぶつかって破裂すると、体内に入り込むサイズになってしまう。
しかもそれは大気汚染物が付着した花粉であるため、アレルギーを引き起こしてしまうのだという。

黄砂も同じで、砂粒が風に流されてくる間に大気汚染物質が付着し、その汚染された砂粒が花粉にぶつかることで、花粉の粒子が細分化される。
細分化され汚染された花粉は体内に入り込み、アレルギーが引き起こされるのだという。

黒幕は花粉ではなく、大気汚染物質だったのか。

杉の植林、食生活の変化、ストレスの増大など、昨今の様々な事情も花粉症の発症に関係しているという。
確かに昔は花粉症なんて聞かなかった。

自分が花粉症になるまで、配慮にもかけていた。
すでに花粉症であった家族に、洗濯物の花粉を払ってから取りこむよう懇願されても、適当にやって「払ったからねー」と言ってたっけ。

今は違いますよ。

花粉の多い日の洗濯物は室内に干すし、帰宅した家族がそのまま玄関に入ろうものなら、飛んで行って外に押し戻し、パンパン叩く。

花粉の症状はストレスではあるけれど、この時期だけのものであることは(私の場合は)救いです。
花粉自体が悪いわけでもない。

柔軟につきあっていくしかないかな……

ふとっちょねこ

ときどき開いて眺める絵本 「ふとっちょねこ」

デンマークの民話がもとになっている。

簡単にあらすじを紹介すると……

あるところにおばあさんが住んでいて、お粥を作っている時におつかいを思い出す。

そこで、ねこにお粥をみているよう頼んで出かける。

ねこはお粥があまりにおいしそうで、きれいさっぱり食べてしまう。

ついでに鍋も食べ、帰ってきたおばあさんも食べてしまう。

それから散歩にでかけたねこは、道で出会うものを次々と食べて、まるまると太っていく。

おのをかついだ木こりに会うまでは…

まるまる太ったねこにに木こりは言う。

「おんや、ねこちゃん いったい何を食べなすった?」

ねこが今まで食べたものを伝えると、木こりはたしなめる。

「いやいや、そりゃあだめだよ、ねこちゃんや」

木こりが、ねこのお腹を斧でバッサリと切ってあげると、中から出てくる出てくる人や鳥。

最後におばあさんがでてきて、なべとおかゆをもって、うちへかえっていきましたとさ。

内容はなかなか恐ろしいが、のんびりとした田舎の風景の中で、たんたんと話はすすむ。

私が特に好きなのは話の結末、ねこのお腹から出てきた者たちはそれぞれ何事もなかったように、もとの場所に帰っていく。

みんなでねこをこらしめることもなく、ねこに丸ごと飲み込まれた恐怖におののくこともなく…

 

ここでつい思い浮かぶのはグリム童話「おおかみと七ひきの子やぎ」

どちらも(おおかみもねこも)人や動物を食べてしまうわけだが、この二つのお話は結末が大きく違う。

おおかみは、お腹に石を詰められ井戸に落ちて死んでしまう。

悪いことをすると厳しい罰があたえられるのだ。

それにひきかえ、ふとっちょねこは木こりにお腹をとじられ、何事もなかったように今までどおり村で暮らすらしい。

きっとまたおばあさんの家にふらりと寄って、昼寝などするのだろう。

 

ねこという多面性を持ったキャラクターがたっている。

身近な愛らしさ、気ままさ、ふてぶてしさ、自由な感じが良く出ている。

そうそう、木こりに出会う前、ねこは牧師さんも普通に食べてしまう。

道を説く役目の牧師さんでなく、実際的な仕事を生業としている木こりが解決に導くのも面白い。

 

みんなで生きていく知恵や、ちょっと楽に生きるヒントを与えてくれるお話かも知れない。

20年以上前、母が孫娘のために、たまたま立ち寄った本屋さんでみつけて買ってくれた。

こんなに長いつき合いになろうとは……

 

天気とともに

昨日から、2月とは思えない陽気。

寒波のあとのご褒美のような暖かい日となった。

それで今日はやっと、コリドラスの水槽の水替え作業ができた。

戸外で1時間以上かかるの水作業は、この時期辛い。

しもやけもひどくなる。

今日がチャンス!!と朝からとりかかり無事終了、ほっとした。

次回の水替えは3月の終わり頃だろうから、もう暖かくなっているはず。

 

家のことはだいたい天気をみながら動いている。

冬の剪定はぽかぽかと暖かい日、夏の草取りは曇り空の涼しい日に、といった具合に。

いつまでにやらねばということもそうないので、自分が納得していればそれでいい。

年末の大掃除もしかり。

昨年末はとても寒かったので、大掃除は家の中だけ、気が向いたところだけにした。

寒風吹きすさぶ中で外の窓ガラスふきなど、とてもじゃないけど私には勇気がでませぬ…

年明けてからでいいわ、と気長に構えていたら、1月にとても暖かい日があって、窓ガラスふきも負担なくやれた。

ありがたい。

 

庭の植物に学ぶことが多い。

暖かい日とも、寒い日とももうまく付き合っている。

1月の暖かい週、一気にスイセンが芽を出した。

続いてグラジオラス、ラッパズイセン、チューリップが思い思いのタイミングで芽を出す。

暖かい日にはグンと茎が伸びる。

寒波がくれば、足踏みをしている。

きっとその間にも力を蓄えているのだと思う。

外の環境に身をまかせ、寒暖どちらも味方につけ、やがて美しい花を咲かせる。

 

今日は水仙が咲き始めた。

 

キツネザルになった

2週間ほど前のこと、試供品の化粧水が合わなかったのか、肌がかぶれてしまった。

ある朝、鏡をみると、左右の目の間が少し赤くただれたようになっている。

その赤いただれは瞬く間に広がり、次の日には目じりを残して両方の目の周りにぐるりとマルが描かれていた。

 

これは何かに似ている。

タヌキか…いや違う。

パンダか…いやちょっと違う。

キツネザルか……ん、近いかも!!

しばらくキツネザルで過ごすのだなと思うと、ちょっと楽しくなっていた。

 

ところが意外と早く治った。

赤い兆候をみとめてから、元に戻るまで一週間とかからなかった。

2~3日かけて広がるだけ広がったあとは、すごい勢いで修復していった。

その刻々と変化するさまを、日々観察するのは面白い。

朝夕でも変化している。

アメリカの生化学者、シェーンハイマーの「生命は機械ではない 生命は流れだ」の言葉そのままに、自分という生命体も目に見えて流れている。

まさに福岡伸一さんの提唱する動的平衡、生命は「分解と合成」を絶え間なく行っていることを実感する。

 

試供品の化粧水はどこかのドラッグストアでもらったもの。

ちょうど泊りがけの帰省があり、携帯に便利なのでメーカーも見ずに使った。

ただパッケージに、「年齢を重ねた肌へ…」みたいなキャッチコピーが書かれていたのは覚えている。

この、しっとりこってり系の化粧水を使うには、私まだ若すぎたんじゃないですかねー (´▽`)

 

        エゴノキにミノムシ

 

巳年

年が明けました。

今年は巳年ですね!

ヘビ好きの私は、わけもなくめでたい気分です。

 

先日のNHK「ダーウィンがきた」は、番組初のヘビ特集だった。

なかでも、バリ島で密着取材をした世界最大の毒蛇、キングコブラのお母さんの生態に驚く。

キングコブラのお母さんは、巣を作って2~3か月もの間、産んだ卵を片時も離れず守った末、孵化直前にわが子の姿をみることなくその場を去っていく。

ゆうゆうと川を泳ぎ去っていくお母さんの姿は神々しかった。

 

キングコブラは同じ種であるヘビを主食としている。

もし、赤ちゃんヘビが孵化するまで一緒にいたら、本能に従ってわが子を食べてしまうかも知れない。

その前に去っていくのだという。

なんて切なくて、潔いのだろう。

自分の長い努力に何の見返りも求めない(かわいい姿をみることさえ)、そしてわが子たちへのへの信頼。

キングコブラに教えられる。

 

私にとってヘビは、子供のころから一番身近な生き物といってもいい。

古い実家には、家主(やぬし)と呼ばれる家の守り神のようなヘビが天井裏に住んでいた。

家の石垣には、脱皮したヘビの抜け殻が毎年ぶら下がる。(母は金運を願ってこれを財布に入れていた(゜o゜)

昨年も150センチほどの抜け殻がぶら下がっていたと聞いて、まだヘビが健在なことが嬉しかった。

時代も環境も変わっていくなかで、同じ場所で今も生き続けていることに力をもらう。

 

ある夏の日、ほんの小さなヘビが、焼け付く石垣を登っては途中で落ち、また登っていく姿を目にした。

生きるとはこういうことかと、強烈な日差しの中で思った。

 

ヘビは脱皮をくりかえすことから、「生命力」や「再生」の象徴とされている。

地べたを這いながらも、図太く生命を輝かせたいものです。

巳年にあやかって……

 

朝のぐずぐず

今年も残すところ2日ほどですね。

年末ですることは多いのに、今朝もゆっくりと起きた。

今年の春ごろから、帰宅が遅い家族に生活を合わせた結果、私まですっかり夜型の生活になってしまった。

その分ゆっくり朝寝すればいいのだが、悲しいかな早く目が覚めてしまう(年のせいなのか、習慣がぬけないのか…)

かといって目覚めてすぐ起きるわけでなく、布団の中でぐずぐずしている。

ぐずぐずしながら頭に湧いてくるよしなしごとを、うつらうつらと味わったり考えたりしている。

 

明け方にみた夢を反芻してみたり、前日おぼえた違和感をふりかえってみたり。

今日はこれとこれをしようと、一日の心づもりをしたり。

決めかねて逡巡していることが頭に浮かんだりもする。

そうしているうちに何となく気持ちが着地し、「さ、起きよっと!」となる。

ものすごくゆるいシンキングタイムか……

 

気づかされることも多い。

前日の行動をふりかえり、しなくていい我慢をしてしまったなとか。

ささいなことに優柔不断になっていたなとか(それも悪くないけれど)

今の自分を助けてくれるキーワードが降りてくることもある。

ちなみに今日は「潔く」だった。

 

ファミリーライフサイクル(家族の発達段階)からみても、個人的には変化のある年であった。

それでも、それなりに時間をかけ、心も体も再調整しながら順応していくものだなあと実感している。

そして新しいものも芽生えている。

朝のぐずぐずタイムは、心の調整と成長に一役かっているのかもしれない。

そんなことを想う年の瀬……

 

今年一年、ありがとうございました。

皆さま、良い年をお迎えください。