足首を捻挫

先週のこと、家の階段を踏み外し、足首を捻挫してしまいました。

最後の一段を降りたつもりが、もう一段あったみたい (‘Д’)

あるはずの床はなく宙に浮く足、前につんのめる身体……

次の瞬間、足の甲で着地する(??)という不自然なことになっていた。

「イタイ…」思わずうずくまる。

 

しばらくして腫れてきたけれど、まあ何とか歩けそう。

めんどくさがりの私はこういうとき、まず病院に行かない。

何とか自分で手当てをして乗り切ろうとする。

「とにかく冷やすのは基本でしょ」と思い、保冷剤をガーゼにつつんで足首を縛った。

そしてあとは安静、何となく足を下げない方がいいような気がして、クッションの上にのせた。

動くときは、いつのかわからない熱さまシートがあったのでそれを貼った。

2日ほど無理をせず、こんなふうに過ごした。

 

3日目くらいから、平地で歩くには問題ない感じ(階段は足首への負担が大きいのか、まだ少し痛みがあるけど…)

腫れは変わらずで、当初にはなかった青や紫のあざも出てきた。

「こんなことになったよ」同情をひこうとすかさず家族にみせる。

あっさりと「お大事に…」ですまされた。

 

そして今日は負傷してから9日目。

腫れもあざも、かなりひいてきた。

このまま順調にいくと病院のお世話にならなくてすみそう。

 

まあ、ちょっと今回は反省です。

年と共にじわじわと運動神経が鈍っていることを自覚できていないのかも知れない。

頭と体の動きが一致していなかったのかも知れない。

 

それともう一つ、「気をつけよ」という何かの警告なのかも知れない、とも思った。

子供の頃の、祖母や母の言葉がよみがえった。

ちょっとしたネガティブな出来事があったとき(物を落とすとか、お鍋を焦げつかせるとか…)こう言われたものだった。

「気をつけなさいということじゃ」

「大難が小難で済んでほんまによかった」(本当は大難だったかもしれないのに、これくらいのことで済んでよかった)

失敗した本人を責めることはしなかった。

起きたことには、何かしらからの注意を促すメッセージがある、と捉えていたのだと思う。

 

祖母たちの知恵に習って、あらためて足元をみよう。

しっかりと地に足をつけて過ごさなければね。

     野菜の切り口がバラみたい!!

果物

頂いたカタログギフトで、山形のサクランボを注文していました。

ところが、「諸般の事情によりお届けできないので、再度品物を選びなおしてください」とのこと……

サクランボ不作のニュースをみたばかりで、大丈夫かなと思っていた矢先の連絡。

昨夏の猛暑と先月からの猛暑で、サクランボの収穫量が激減しているみたいですね。

 

行きつけのスーパー店頭も、国産サクランボは影をひそめ、アメリカンチェリーがいっぱい並んでいます。

サクランボに限らず、店頭の国産果物の種類が今年はあきらかに少ない。

気候の影響か品質も不安定で、しかも例年より高い。

 

子供のころ、果物は高級品ではなかった(地元の果物に限っていえば)

たとえばビワ、家で作っていたので収穫時期には食べ放題、あきるまで食べたものだった(今スーパーで、ビワ6個入りに780円なんて値段がついているのをみるとため息がでる)

イチジクもブドウもスイカもしかり。

茂平ウリという伝統的でローカルな果物も美味しかった。

家で作っていない桃やミカンは、ご近所の農家で頂いた。

今思えば、ほんとうに恵まれていた果物事情だった。

そんな土地柄(岡山県)で育ったせいもあり、今も果物が大好きで、少しでもいいので毎日食べたい。

その季節がくれば、メロンも食べたい、スモモも食べたい、梨も食べたい。

 

何よりこの暑い時期に、果物は食べやすい。

体がシャキッと目覚め、疲れも飛んでいく(ような気がする)

かくして今日も、お店の果物コーナーをいったりきたりしながら、悩ましく果物を選んでいる。

農家さんのご苦労がしのばれる、ばらつきのある果物の山の中から、美味しそうな品を目を凝らして選んでいる自分を少し後ろめたさく思いながら。

 

人が大昔、自然の中で果物を手にしたときの喜びはいかほどだったろうと思う。

その喜びは、やがて世界各地で栽培へとつながり、今のありがたい果物文化がある。

農家さんには、その土地伝統の果物を作り続けて欲しいです。

昨今の気候変動の品質への影響、灼熱のなかでの作業の過酷さを想像すると、本当に勝手な願いだけど……

 

果物の値段が…とか、今年の品質は…なんて不満を言っては申し訳ないですね。

人と自然との協調の賜物、今年は今年の果物をいつくしんでいただきたいです。

この世界に果物がある幸せ……

       岡山のもも「はなよめ」

映画「関心領域」をみた

「関心領域」というホロコーストを題材にした映画を観た。

内容、作り方、いろんな意味で衝撃的だった。

 

強制収容所の中の描写はほぼない。

映されるのは、アウシュヴィッツ強制収容所と塀を隔てて隣接する、アウシュヴィッツ所長一家がくらす邸宅。

カメラはその家族の日常を淡々と追っていく。

緑豊かな広大な庭を持つ大邸宅、理想的な環境で情操豊かに子供たちを育てる所長夫妻。

妻は、一才に満たない末息子を庭のバラにふれさせ、「これがバラの香りよ、いい香りね」と語りかける。

夫は幼い娘が眠りにつくまで、ベッドで絵本を読み、語りかける。

その幸せな空間とアウシュヴィッツ強制収容所を隔てるのは高い塀のみ。

塀の向こうからは昼夜を問わず不穏な気配が伝わってくる。

煙突から立ち上る黒い煙、銃声や叫び声……

一家のくらしに侵入してくる、その黒い気配。

映画をみているこちらも、得体の知れないいたたまれなさに揺さぶられ続けている。

それはこの一家が絶え間なくさらされているものと同質。

見ないようにしていても、家族の心の奥底で増殖していくものを、一緒に感じているのだ。

 

この家族と自分は地続きにあるのだと思い知る。

塀の向こうで苦しむ人たちとも地続きにある。

あの時代と今の時代も地続きにある。

何も終わっていない。

作品を通して今なお漂う、過去からの強い磁力にふれているのかも知れない。

 

全てをつまびらかにみせないまま、ストーリーは淡々と流れていく。

やがて、一人一人の奥深く増殖を続ける何かによって、ほころびが見え隠れする。

 

音の効果がすごい。

一定のリズムで波のように繰り返される、不協和音のようなサウンド。

心の深層へといざなわれる装置のようでもあり、叫び声のようでもあり、亡き魂たちの共鳴のようにも聞こえる。

 

最後はふいに終わる。

終わったものの、しばらく席を立つことができない。

一緒にみた娘も、言葉少なであった。

       先着でもらえた絵葉書セット

モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団コンサート

クラシックコンサートに出かけた。

「山田和樹指揮 モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団 ピアノ藤田真央」

演目:ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲  ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調 ベルリオーズ:幻想交響曲 作品14

開演前のプレトーク、まず藤田真央さんがふらっと舞台に登場。

いつもながらの底抜けの笑顔に飄々とした話しぶり。

神様は彼に特別な何かを与えているらしい、会場はたちまち癒されオーラにつつまれる。

そこに山田和樹さんがおもむろに現れ、お二人のゆるい掛け合いが始まる。

何だろう、この心地よさ……

お二人に共通に流れているものが数倍の効果となって場を満たし、自然と笑顔になる。

 

モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団はたいそう魅力的だった。

さすがは高級リゾート地 モナコのオーケストラ、見た目も華やか。

女性も男性も、俳優のようにカッコよく、それぞれ独自の雰囲気を放っている。

 

演奏はすばらしかった。

フルート、ハープ クラリネット オーボエなどのソロパートにも魅了される。

藤田真央さんのピアノは、一音一音の連なりがキラキラと虚空に広がり、まるで生き物のように躍動する。

私の席は、舞台側の2階席だったので、指揮の山田和樹さんの自在な表情もよく見えた。

そして体の動き!

体内で打楽器が勝手に鳴っていて、そのリズムに委ねてるだけ、みたいな感じだけどそれがすごい迫力。

この個性的な楽団員さんたちが、指揮者をこの上なく信頼し、リスペクトしているのが伝わってきて胸が熱くなる。

 

圧巻の演奏に最後はスタンディングオベーション。

たまたま私のいたブロックは、他に立つ人がいなかったけれど、構わず立ち上がり渾身の拍手を送った。

遠慮しては悔いが残ると思ったので。

最後はラテンの雰囲気たっぷりに笑顔で観客に手を振り、アイコンタクトをとりながらの退場、どこまでも魅力的だった。

 

劇場の外に出て、しばらく夜風にあたりながらそぞろ歩く。

さてぼちぼち家路に向かいますかね……

 

最近思う

最近思っていること。

諸々の経験が、自分にとってどうだったかなんて、簡単にわかるものではないし、こだわることもないのかなと……

人生の多くの時間は、非効率的だったり、すぐには結果に結びつかないことで占められている。

でもそれをひたすら積み重ねていくことが、生きるということなのではないかと……

 

今このブログを書いているけど、アクセス解析などしないので、果たしてどのくらい読んでくださる方がいるのか知らない。

書くことが何かに結びついたり、役にたっているかなんてわからない。

それでも何となく続けている。

 

昭和に子供時代を過ごした記憶をたどると、あの頃「ためになる」というキーワードがたびたび出てきたように思う。

読書はためになる、○○先生のお話はためになる、今これをやっておくと将来のためになる……

何かをすることによっていいものが得られるはず、という空気はどこかに刷り込まれているのかも知れない。

もちろん読書はためになったけど、ためになるから読んだのではなくて、読みたいから読んだだけで…

 

効率的に物事を進めたい気持ちはある。

このブログだって、サクッと書いて「ハイ 投稿完了!」ってやりたい。

でもそんな能力はないので、いつもそれなりに時間と手間をかけている。

 

何かをするからには結果を求めたくなる気持ちもある。

社会は「結果を出す」ということであふれかえっているし、一部の物事にとってはそれはとても大事なことなのだろうと思う。

けれど、人生はもっともっと深いところで流れている。

本当に大事なものには、コスパ、タイパなどあまり意味をなさないと思っている。

最短の道などない。

今まで生きてきて、経験的に学んできたことかも知れない。

 

確かなのは、生まれてからの小さなことから大きなことまで、あらゆる出来事の堆積の果てに今の自分がいること。

何はともあれ、この先もひたすら歩き続けるだけですね。

   故郷の笠岡駅 効率化の流れか今では無人駅となった

 

カッパ淵の思い出

ゴールデンウイークも終わりましたね。

こどもの日に柏餅をほおばりながら新聞を広げたら、遠野の「カッパ淵」の写真が目にはいりました。

 

もう35年も前、遠野物語に魅かれて訪れたときの思い出がよみがえった。

そのときはまだ20代、他に人影もないカッパ淵で、ひとり休んでいた。

しばらくすると、どこからともなく一人のおじいさんが現れた。

「どこからきた?」

おじいさんに聞かれるまま、岡山から来たこと、家ではイチジクなど作っていることなど話した。

「ほう、それはめずらしい、この辺ではイチジクはとれないよ。気候が合わないもんな」

 

そんな話をしていると、今度は地元の農家のおじさんが大きな馬を曳いてやってきた。

バシャバシャと豪快に水しぶきを上げ、水浴びを始めた馬。

間近で見る馬の迫力に圧倒される。

水を勢いよくかけてもらって全身で喜ぶ馬、おじさんもニコニコと相好を崩し、馬が愛しくて仕方ないという感じ。

そばにいるこちらまで心躍るようだった。

 

遠野物語の58話は次のような話。

「馬曳きの子が姥子淵へ馬を冷やしに行くと、河童が馬を川に引き込もうとして、逆に馬に引きずられて厩の前に来てみつけられる。村人たちは河童に、今後は村の馬にいたずらをしないことを約束させて殺さずに放した。その河童は今は相沢の滝に住んでいる」

まさに目の前の光景は遠野物語をほうふつとさせた。

しかもここでは、それが何気ない普段のひとコマであるらしい。

この地の精神性を肌で感じるようなひと時だった。

 

遠野物語の魅力の一つは、それが事実に基づいていることの力強さだと思う。

例えば55話には「此家も如法の豪家にて○○○○○という氏族なり。村会議員をしたることもあり」とある。

人名こそ伏字にしているが、どこの家の話であるかまで記されている。

この現実性と、不可思議な話もそのまま受けいれる懐の深さに生きる知恵を感じる。

全てを白日の下にさらすのでなく、時に不都合な事実をオブラードに包み、異界とこの世、動物と人など境界を超えて混じり合うことをも受け入れ、共同体の物語に昇華させている。

 

さて先のお爺さんの話に戻ると、この方は阿部与市さんという由緒ある家の方で、カッパ淵の主のような方らしい(後で知った…)

何でも子供の時にカッパをみたという。

カッパ淵にしばしば出没して、旅人相手に話をされていたようで、私もまんまと恩恵にあずかったというわけですね。

カッパに出会えたかのような、ほんわかとした思い出となっている。

 

いつかまた会えたらいいなあ。

次はあの世でだろうけれど……

 

        赤いガーベラ 咲いた!

 

 

 

トカゲの死

3日ほど前のこと、勝手口から家の裏に出るとトカゲの死骸があった。

まだ生の名残りをとどめたような生々しい姿。

鳥にでも攻撃されたのだろうか、致命的な傷を負い、身をくねらせて息絶えていた。

しばらくしゃがんで死骸をみつめた。

 

その前日、そのあたりの草取りをしたばかりだった。

草のない地面に、身を隠すすべもなく無防備に這い出たトカゲは、たやすく天敵の餌食になったのかもしれない。

そうだとしたら、私もトカゲの死と無縁ではない。

ごめんな……

 

このまま朽ちて土にかえるのも自然の姿かと、3日ほどそのままにしていた。

が、そばを通るたびにその姿を目にするので、こちらも気になる。

野ざらしで冷たい雨に打たれるのも哀れか…と思い、埋めることにした。

 

庭に小さな穴を掘り、葬った。

死骸をスコップですくうと、すでにカラカラと乾いた質感の物質と化していた。

「また生まれておいで」と声をかけて、土をかける。

そのうちバラの花びらが、ハラハラとその上に舞い落ちることだろう。

 

大きなトカゲだった。

何年も(もしかして10年以上かも)この地で生きてきたに違いない。

生き物は人の身代わりになってくれることがある(ような気がしている…)

私の、または誰かの身代わりになってくれたのかも知れない。

それとも何らかの注意を促すメッセージを、身をもって見せてくれたのか。

色々と感じるところがあった。

 

トカゲがここで生きていたこと、そしてある春の日にふいに旅立ったこと……

覚えておこうと思う。

 

        秋に植えたグラジオラス 咲いた!

馬乗り観音

広島県福山市の馬乗り観音にお参りした。

馬乗り観音は標高500メートルの山上にあり、大人になってから参るのは初めて。

子供のころ、歩いて4~5キロの山道を登ったものだったが、今回は兄と軽トラで頂上まで登る。

「ポツンと一軒家」に出てくるような、細い坂道は車一台がやっと通れる道幅。

ちょっとスリリングな道中だったが、車ごと崖から転げ落ちることもなく無事到着。

お堂に近づくとガラス戸が開き、「さあさあ中にどうぞ」と堂守さまがにこやかにお迎えくださった。

すべてが気持ち良く整えられた観音堂で、ゆったりとお茶を頂く。

 

母方の実家に近いこの観音様には、思い出が多い。

子供のころの夏休み、いとこや祖母たちと遠足気分で、往復一日がかりの山道をお参りしたものだった。

山道には鬼百合やアザミが咲いていて、目を楽しませてくれた。

昔はお参りの人も多く、ご祈祷の順番を待つほどだった。

待ち時間には、遠路はるばるのお参りの人をねぎらってか、おそうめんが供される。

子供にはお接待といって、薄い茶色の袋(筋入り茶袋というらしい)に溢れんばかりのお菓子をくださる。

順番が来ると家族ごと、グループごとにご祈祷をして頂く。

子どもの頼りない背中にもジャンジャンと、巨大な数珠の容赦ない衝撃。

いとこの一人の笑いはみんなに伝染し、子供一同必死に笑いをこらえる苦行(後で大人に叱られたくないので)

 

兄と私は、そんな思い出話を、代わるがわる堂守さまと奥様(だと思う)に聞いていただく。

頃合いをみてお布施を納めると「よろしければご祈祷しましょうか」と堂守さま。

40数年ぶりに懐かしいご祈祷をしていただいた。

 

終わると、お札にお守り、お接待、小冊子など二人にそれぞれくださる。

こんなによろしいんでしょうか…と恐縮しながらもありがたくいただく。

観音様のおかげか身も軽くなり、満ち足りた気分でお堂を後にした。

      昔ながらの茶袋のお接待が懐かしい…

馬乗り観音は千年の歴史があり、伝説がある。

長者の家に旅のものとして現れたお花という少女、品がよく働き者で、その純粋な生き方に皆は心を打たれる。

数年の歳月がたち、ある日お花は白馬に乗って山上のこの地に駆けてきて桜の木に馬をつなぐと、合掌の姿勢となるや、その姿は次第に神々しき観音様の姿となりかき消えたという。

お花は観音様の化身だった。

頂いた冊子は、令和元年の屋根修復・ご開帳法会記念にちなんで発行されたもので、その伝説についても詳しく記されている。

 

家に帰ってから、冊子を読んでいた兄が「えっ」と声をあげる。

「馬乗り観音と福泉寺」という章に、母の実家のことが記されているのをみつけたのだ。

下市の金政屋に池田泰四郎という人がいて…というくだり。

この人は晩年堂守となり、鐘楼の新設や境内の整備など画期的な事業を行った、と記されている。

下市の金政屋とはまさに母の実家。

明治初期のことで、今となっては確かめるすべもないが、この観音様と母の実家はとても縁があることがわかった。

 

今回、なぜか思い立って何十年かぶりにお参りしたのも、何かに導かれたのかもしれない。

こんなふうに過去とつながることもあるのだな…と温かい気持ちになった。

 

今度お参りしたら、堂守さまに早速この話を聞いていただこう。

 

「猫を棄てる」を読み返す

本棚の中を覗くと、なぜか背表紙がぴょこんと飛び出た一冊があった。

「猫を棄てる」 父親について語るとき 村上春樹

2020年に新刊で読んだものだったが、再び読み返してみた。

 

身内のことを書くという著者にとって気の重いことを、猫にまつわる父と思い出が思いのほか助けてくれたという。

そして本となったことは、私を含む読者にとって幸運だった。

個人的な文章ではあるが、書き残しておかなければならないという想いが著者に強くあったのではないか。

ひとつには戦争というものが、人の心と人生、またその一家にどれほどの影を落としたのか…

父親についての記憶や、その人生についてのあれこれが淡々と語られることによって、ほかのどの方法よりもこちらに届く。

 

戦後20年たって生まれた私であるが、子供のころ、大人から戦争の話を聞くことがあった。

弟二人を戦争で失っている父方の祖母は、弟の一人が出征した日のことを、母や私に語ったことがあった。

出征の日、家の前には村の人達が見送りに集まってくれている。

しかし弟は、竈(くど)のところにじっと佇んで、なかなか家を出ようとしなかったという。

皆を待たさないようにとの配慮から、両親は早く出るよう息子を促す。

皆の手前、追い立てるように息子を見送らなければならなかった両親の胸中もいかばかりだったろうか。

もしこの弟が生きて帰っていたら、このエピソードがこれほどの重みをもって、祖母の心に刻まれたかどうかわからない。

孫にこの記憶を語ることもなかったかも知れない。

祖母を通して語られる情景から、子供の私は会ったこともない大叔父の存在を感じとり、心に刻んだのだった。

 

カウンセリングは家族の歴史にふれるという側面がある。

戦後80年たった今なお、戦争によって負った家族の傷が浮かび上がることがある。

 

過ゆく時代のなかで、忘れてはいけないこと、おろそかにしてはいけないことがある。

 

      オシドリと鯉

昭和のおやつ

出来たてプリンです。

パック牛乳の賞味期限がせまったときに ときたま作るおやつ。

卵、牛乳、砂糖のみのシンプルな材料、そして洗い物も少ないのが、ぐうたらな私には助かる。

 

子供のころ、他家でいただくおやつはさまざまだった。

叔母の家では、コップで蒸したホカホカのカスタードプリンと揚げたてのクッキーが定番だった。

クッキーは子供たちに好きな形を作らせてくれ、それを次々と揚げながら食べる体験型おやつ。

 

幼なじみの家では、人参や青菜入りのホットケーキを4歳上のお姉ちゃんがよく作ってくれた。

お母さんの健康志向の強さがおやつにも反映されている。

ある日のおやつはめずらしくインスタントラーメンだったが、スープの表面がすきまなく刻んだニラで覆いつくされていて驚愕……

 

イチゴ農家の友達の家のおやつは夢のよう。

出荷できない変形イチゴが食べ放題!!

子供は何でも遊びにしてしまう。

広い作業場に即席のジャンプ台を作り、ジャンプしてはポーズを決め、ご褒美に大きなイチゴをほおばる。

ジャンプ、ポーズ、いちごパクッ、 ジャンプ、ポーズ、いちごパクッ その単純な遊びが楽しくて仕方なかった。

 

またある友達の家では、お母さんオリジナルの巻きずしのようなおにぎり。

酢飯ではなく塩味のごはん、具はしょうゆ味のおかか。

遊んでお腹を空かせた子供には本当にごちそうだった。

 

ところで、うちの家では、どんなおやつを出していたんだろう。

何故か思いだせないが、手作りおやつではなかった。

多分かっぱえびせんとか味覚糖のキャンディ「純露」とか市販のおやつだったと思う。

まれにハウスプリンエルとか、シャービックとかはあったかも知れない。

 

それにしても昭和のおやつは、それぞれの家の色合いがある、素朴なおいしさだった。

小さなお客のための、心づくしのおもてなし。

あたりまえのように頂いていたけれど、ありがたいことだったな…と今思う。