今日6月25日は、建築家アントニオガウディ(1852~1926)の生まれた日だそうです。
そしてその死もやはり6月、突然訪れたあっけないものでした。
73歳のある日、教会への礼拝に向かう途中に転倒、路面電車にひかれて3日後に病院で亡くなりました。
みすぼらしい身なりをしていたので浮浪者と間違われ、手当ても遅れたということです。
ガウディの代表建築、サグラダファミリア。
着工から100年以上過ぎた今も、建設が続いているこの教会に、ガウディは晩年のすべてをささげていたのだと思います。
その道半ばでなぜ、このような死に方をしなければならないのか。
ガウディが好きな私は、やりきれなさと納得できない思いを持っていました。
ところが、昨日ふと違う考えが浮かびました。
ガウディは自分の肉体すら、このサグラダファミリアにささげたのではないかと。
ガウディの作品から感じる自然との共鳴、自由さ、そして連続性。
ガウディは自分もまた、この宇宙の連続性の一点のようなものであるととらえていたのではないか。
自分の死後、100年も200年も建設が続くであろう建物を創ろうとしたことにも、その哲学がうかがえます。
出来れば長生きして、できるだけ建設を見守りたかったでしょう。
けれども同時に、個を超えた全体性、連続性を信頼し、後世に委ねた。
突然の、個としての自分の死も、ただただ受け入れたのではないかと私には思える。
ガウディはサグラダファミリアの地下室に埋葬されているとのこと。
未来の民、すでに天に召された魂、移ろいゆく自然を、サグラダファミリアと一体となって、今も見守り続けているのではないかと思います。
いつか、会いに行きたいものです。
話は変わりますが、昨日庭で草取りをしていたら、蝶(アオスジアゲハ)が私の周りを飛び回るのです。
何かを伝えようとしているかのように…
ふと塀をみると、蜘蛛が蝶を捕食していました。
あらかた食べられて、翅と胴の一部が残っているのみでしたが、その模様からアオスジアゲハだとわかりました。
飛び回る蝶は、仲間の死を知らせたのかなと思い、静かに手を合わせました。
人にも生き物にも、突然訪れる死があります。