映画「生きる‐LIVING」をみてきました。
黒澤明監督の70年前の作品、「生きる」のリメイク。
今回カズオ・イシグロさんの脚本で、しかもオリジナルと同時代のロンドンが舞台と知り、これはみるしかないです。
「生きる-LIVING」……
期待を裏切らない作品でした。。
キャスティングもすばらしく、役者さんそれぞれが、その人物そのものであるかのよう。
お堅い英国紳士で、役所の市民課の課長として単調な毎日を送る主人公。
役所全体に流れる怠慢な空気、毎日の表面的ルーティーンの中で、いつしか情熱は失せ、型にはまった役人になっている。
自分を生きることも忘れかけている彼に、ある日突きつけられた過酷な現実。
「ほんとうに自分を生きているか…」この映画のメッセージであるように感じました。
職業や各コミュニティが持つある雰囲気、そういうものに飲み込まれていないか、いつしか麻痺して甘んじてはいないか。
映画をみて、カズオ・イシグロさんの別の作品、小説「日の名残り」を思い出しました。
この小説の主人公は、「生きる」の主人公とは逆に、執事という職業にすべてをささげる人です。
生涯をかけて、品格ある執事の道を追求し続ける。
この歴史ある邸宅のため、敬慕する主人のため、執事としての誇りと責任感で自分が成り立っている。
わずかな休憩時に恋愛小説を読むことすら、その目的は執事としてのエレガントな対話を習得するためと思っている。(実のところ、純粋な喜びを感じてもいるのですが…)
そんな彼は、気になっている女性からのアプローチにも気づこうとしない。
有能な執事としての思考に、自分の素直な心が入り込む余地はないのです。
「生きる」と「日の名残り」 タイプは違うけれど、どちらも職業としての衣に自分を閉じ込めている。
自分そのもの(もしくは全体)を生きていない。
いつのまにかある一面が優位になって、本来のいきいきした感情、興味、情熱が失われていく。
それでも「生きる」の主人公は命の期限をを知ったとき、行動を始める。
「日の名残り」の主人公は感情の揺れは見え隠れするものの、どこまでも仕事としての「知性」や「型」がそれを覆う。
それは身体に張りついた、もう一枚の皮膚のよう。
そのアンバランスに気づくことの難しさ、変化する難しさも、それぞれの作品に描かれています。
話は映画に戻りますが、70年の時を経て、今の時代のクリエーターの手で甦った「生きる‐LIVING」 感慨深いです。
長くなりついでに余談ですが…
この日、珍しく早めにミッドランドスクエアシネマに着いた私、悠々と入場ゲートに向かいました。
係の人に券をみせると、「お客様、この作品はシネマ2での上映です」だって。
キャー、朝から全力疾走する羽目に(汗)
執事にはとてもなれそうにない……