スピリチュアル体験を考える

スピリチュアルな体験をお聞きすることがあります。

カウンセリングの現場だったり、友人知人、家族、身内から。

 

森を歩いていたら木の声が聞こえた。

部屋の中に光の物体が入ってきて、しばらくそばにいた。

亡くなった人が昆虫になって(あるいは蝶や鳥やカエルになって)会いに来た。

亡くなった人の声が聞こえた、匂いを感じた。

臨死体験であの世の祖父母に会った。

照明が勝手についた、電化製品が勝手に突然作動した。

 

それはもう枚挙にいとまがないほど聞いてきました。

私自身も科学では証明できない不思議な体験が多々あります。

なので、現実では説明のつかない体験も、そういうことはあるだろうな~と普通に受け入れることができます。

 

先日縁あってお会いした方が、自分の身の上に次々と起こる不思議な体験にとまどっている、受け入れられない、と苦しさを吐露されました。

でも不思議でありうが何であろうが、体験していることは事実だし、そしてその体験から何かしら感じていることも事実。

それでいいのではないかと思います。

事実か気のせいかとか判断する必要なんてなく、いいか悪いかなんてものでもないと思います。

 

目に見えるもの、科学で証明できるものがすべてではない。

私は特にスピリチュアル系のカウンセラーというわけではないし、自分を○○系とカテゴライズする気もありません。

ただ体験している事実をそのままみていこうとすると、現実の延長としての説明のつかない不思議なことも普通に認める方が自然だと思うのです。

そういうスタンスでいることに、何か大切なことが含まれているような気がしてなりません。

 

咲きました!

種から育てたオーガニックのスイートピー

 

 

 

舞台になる

カウンセラーとして大事に思っていることがあります。

クライエントさんが表現者であるならば、カウンセラーはその「舞台になる」ということ。

もともとは心理療法家の河合隼雄さんの著書から得たことです。

ご自身の臨床活動において、治療者はクライエントさんが演じる演劇の「舞台になる」という表現をされているのです。

 

初めてこの言葉にふれたときは、その意味がわかるようでわからない、今一つしっくりきてはいませんでした。

その頃の私のセラピスト像は、舞台というよりも、「クライエントさんの伴走者」というイメージ。

クライエントさんの旅の途上、傍らに寄り添って時に励まし、時に重い荷物を半分持ち、共に地図を眺め・・

そんなふうに思っていました。

 

その後、臨床活動を重ねるうち、「舞台になる」という表現の深さに思い至るようになった気がしています。

人の人生はまさに唯一無二のもの、心の景色も十人十色、それをそのまま表現してもらうことがどれほど大事か。

 

台本のない舞台上で、何が起こるか、どんな登場人物が出てくるか、小道具、照明、その他ディテール・・・

何らとらわれのない自由な舞台でいられるか、繊細であるか、そこにセラピストの力量が問われるのではないかと思います。

そこでどんなことが起こってもそのまま受け止める、図らずも降りてくるものがあれば迎え入れる。

クライエントさんの世界を最大限引き出せる舞台に・・・

 

人は本当に一人一人違う世界を秘めています。

現実世界では表現できないことも、舞台上では表現できます。

現実でないところでの表現、それって意味あるの?

あるんです。

 

無意識や潜在意識などの領域、心の奥底が動くと、現実と接している意識も影響を受けます。

意識が現実を作っていると考えると、カウンセリングという舞台で、心の奥底が動くことに大きな意味があるのではないでしょうか。