水槽の騒動

ここ1~2か月、水槽のことでバタバタしました。

5月、10年飼った最後のアカヒレを見送り、水槽は空っぽになっておりました。

それから一か月ほどたった7月の初め、やはり生き物がいないのは寂しいので、アカヒレ5匹とコリドラス一匹を迎えました。

新しく砂利をしき、水も全て入れ替えて、新しい仲間たちでスタート。

 

最初は順調でした。

アカヒレはみるみる大きくなり、コリドラスは愛嬌のある姿で、底を巡回し餌をモフモフ。

ところが3週間ほどたった時、一匹のアカヒレがやせ細って、水面近くでじっとしていることが多くなった。

しばらくして死んでしまいました。

「やはり初めから弱い個体はいるものだ……」と思うことにした。

今まで、生き物との相性の良さに自信を持ち、またそれを吹聴してきたものですから(このブログでも自慢げに綴った)、自分の飼い方が悪いとは、素直に認めたくなかったのだと思います。

そのうち、また一匹のアカヒレが同じような経過をたどって死んでしまいました。

 

どうも水質が悪いらしい……

認めないわけにはいきません。

水槽の水を1/3ほど変える作業を、2~3回繰り返しました。

それでもどんどん目に見えて、水が濁っていく。

 

一番気になったのは、サカマキガイの大量発生。

コリドラスとアカヒレを購入したときの水に、サカマキガイも一緒に紛れていたのかも知れません。

サカマキガイは日に日に大きくなり、水槽のガラスや水草に透明のゼリー状の卵を産み付け、どんどん繁殖していきました。

前回アカヒレを飼っていた10年では、見たこともないゼリー状の卵。

「これはどうしたものか…」と手をこまねいているうちに、どんどん孵化して爆発的に幼貝が発生する、その間にも成貝は次の卵を産み付ける、という悪循環になっていました。

 

これは本腰を入れて、対策をしなければ……

まずはサカマキガイをとりのぞこう。

この大量のサカマキガイのフンや、酸素消費が水質悪化の原因になっているに違いない。

そこで別の水槽に水を張り、サカマキガイを網ですくっては移す、すくっては移す、を毎日続けた。

同時に水の一部入れ替えも続け、水質浄化を試みましたが、すでに手遅れだったか、残りのアカヒレも弱っていった。

とうとう3日続けて、残り3匹のアカヒレも失ってしまいました。

 

やはりフィルターをつけるべきだったか……

実は今まで、水槽にフィルターを付けていなかったのです。

前回の飼育は、フィルターなしでも、水の小まめな入れ替えやバクテリアの調節で、あまりに上手くいったため(実際にとても長生きした)このやり方でいいのだ思い込んでしまったのです。

フィルターは音がうるさいに違いないし、シンプルに飼育できるならそれが一番良いではないかと。

 

自分の考えをリセットして、倉庫にしまい込んでいたフィルターを初めてつけてみました。

取説によると、不織布に覆われた活性炭入りのろ過材が水質を浄化し、匂いや汚れも吸着してくれるらしい。

他にも、「バクテリア付きろ過材」というものを買ってきて、フィルター内と水槽内に10個ほど投入。

水槽に沈めた素焼きの壺や、カニやカメの形の陶器のミニチュアにこびりついてたコケは、本気で磨いて落とした。

生き延びたコリドラスを守るために、できるだけのことをしてみました。

すると2~3日後、劇的に水が澄んで、見るからに健康的な水槽になった。

おまけにフィルターから流れ落ちる水の音、水槽の中におだやかな水流が生まれ、こちらまで癒されるよう。

 

コリドラスは、より生き生きして元気になったようにみえる。

このまま、元気に過ごしてほしいものです。

 

今回のことは、反省しました。

たまたまの成功体験からくる思い込みで、手立ても遅れ、アカヒレたちを犠牲にしてしまいました。

命を預かる以上、勝手な思い込みや、「明日でいいか…」は通用しないです。

私の心も、この1~2か月とても影響を受けていたものと思われます。

アカヒレの夢を何度も見ましたし、サカマキガイの大量発生イメージが、時おり頭の中を浮遊していました……

 

 

泥棒をみて縄を

ご近所の小学生の兄弟、朝から大きなビニールプールで喚声、水しぶきをあげています。

この世にこれ以上の楽しいことはない、というくらいのはしゃぎよう。

いいなあ、私もはるか昔に覚えがある。

きっと夏休みの宿題も済ませ、残りわずかな時間をおう歌してるのでしょうね。

 

ところで、うちの娘は宿題をためる常習犯でした。

8月31日と言えば、娘が一年の内で一番机に向かった日です。

おおむね手間のかかる宿題はすべて残っている。

「あっ、まだ習字を書いてなかった」

そして硯や墨汁を机に広げてから、のたまうのです。

「あっ、半紙が無かった」

そして31日の夜、閉店間際のお店に半紙を買いに走る……

そんなことばかりしてましたね。

 

宿題は深夜になっても終わる兆しなく、無情にも9/1がやってくる。

ただ、小学校では「二日間に分けて夏休みの宿題を出す」というありがたいシステムだったのです。

そのおかげでなんとかなっていた記憶があります。(いや、何とかなっていなかったのかもしれない、自信なし)

 

娘のそんな様子を目にするたび、「泥棒をみて縄をなう」とはこのことだ、と思ったものです。

あれは中学校の時だったか、高校の時だったか、登校前に、慌てた様子で探し物をしている。

聞けば、「テスト範囲を書いた紙がない…」だそうな。

テスト当日の話ですよ。

登校前に何かをさがしまわるのは、ほぼ毎日の光景で珍しくもなかったが、おぬしテスト勉強というものもしていなかったのか……(;一_一)

 

中3の時の国語の授業では、好きなことわざとその理由を、クラスのみんなの前でスピーチするというのがありました。

発表前夜になって、すっかり忘れていたその課題を思い出した娘、急には好きなことわざを思いつかない。

「ま、明日は明日の風が吹く、なんとかなるよ」と、うかつにも声をかけた。

娘はちゃっかり「明日は明日の風が吹く」のことわざについてスピーチしたという。

「何も準備できてなかったけど、こうして今スピーチしてるじゃないですか、なんとかなるもんです」みたいなことをその場で思いつくまましゃべったら、幸か不幸かそれが大受けしたらしい。

 

こうして「泥棒を見て縄をなう」傾向はいまだ続いているもよう。

大学のネット提出の課題は、だいたい締め切り時間の数十秒前、たまに半日も前に出そうものなら得意になっている。

対面授業での発表の資料は、当日の朝に間に合わず、開始ぎりぎりまで大学の構内でパワーポイント作成などしているらしい。

 

私は、まあまあ計画的にやるほうなので、娘には随分やヤキモキさせられてきました。

「もう少し余裕をもってやろうよ」と事あるごとに言ってきましたが、変わりませんでした。

ここまできたら、もう好きなようにやっておくれと思ってます。

この呑気さもまた、彼女の強さではないかと。

 

人に何かを求めるとき、自分の不安からきていることが多いのですよね。

 

    5月に挿し木にしたバラ、ぐんぐん伸びている

川の匂い

2年ぶりに母方の先祖のお墓に参ってきました。

広島県の山あいの村、山野町というところです。

実家の兄と急に思い立って出かけました。

 

山の斜面の集合墓地からは、村全体をほぼ見渡すことができます。

子供の頃、毎年夏休みに避暑に訪れていた懐かしい風景。

夏休みに滞在中は、いとこたちと毎日のように泳ぎ、魚とりをしたものです。

村の中央を小田川という一級河川が流れ、三角屋根の保育園や、プール付きの小学校、川沿いにいくつかの商店も並んでいて、郵便局や美容室まである。

田舎ではありましたが、子供の目にはちょっとした文化も感じるところでした。

なにしろ、自分の家は瀬戸内海の小さな入り江の何もない村で、唯一のよろず屋には漫画本すら売っていなかった…

それでも父方は海、母方は川、それぞれの自然と文化を享受することができた子供時代は、今思うとなかなかに贅沢ですね。

 

お墓参りの後、かつて泳いで遊んだ川に行ってみました。

道路から川を見下ろした瞬間、ふわっと川の匂いが立ち上ってきました。

「あー、山野の川の匂いじゃ」と兄

「うーん、山野の川の匂い……」私も思わず口に出る。

川の匂いに誘われ、二人とも一瞬、数十年前の子供時代にタイムスリップしたのでした。

 

川から歩いて1分、かつて毎年夏に滞在した母の実家のそばまで行ってみました。

懐かしい母屋、今では人手に渡り、他人の家となっています。

20数年前、祖母と伯父が相次いで亡くなり、身内に住む者もなくて手放したのですね。

子供の頃滞在した離れと、隣にあった蔵はなくなって更地になっていました。

家の周りを囲っていた土塀も、残骸といった趣で少し残っているのみ。

年月の経過を思うと同時に、古い母屋を大事に保存して住んでくださっていること、ありがたく思いました。

 

母は生まれ育ったこの土地を愛してやまず、特別な思いを持ち続けていました。

五感に刻まれた大切な記憶なのだと思います。

 

五感と言えば魚類は嗅覚が発達しているそうです。

海を回遊したサケが、生まれた川に帰ってくるのは、川の匂いをかぎ分けているからだとか。

水中のアミノ酸組成を嗅ぎ分け、その匂いの違いを道しるべとして、正確に生まれた川に戻ってくるのだそうです。

すごいですね。

 

私と兄が思わず「山野の川の匂い…」とつぶやいたとき、種を超えて魚になっていたのかも知れません。

 

 

曾祖母

兄と会話中、あるきっかけで、幼児時代の私の話になりました。

その頃の私を物語るエピソードの一つに、「キーッとなって鉛筆や割りばしをぎりぎり噛む」というのがあります。

はい、覚えていますよ。

自分を押し通せない時、内に吹き荒れるものを持て余して、そばにある鉛筆などをくわえてぎりぎりと噛みしめる。

私の記憶では、そのような癇癪な姿を周りが面白がるので、5歳くらいになると半分は期待に応えてやっていたのではないかと思っていました。

ところが兄の見方は違い、「あれは、ホンマににしんどそうだったで。すさまじいエネルギーを出して、消耗しとったわ」と言うのです。

3歳年上の兄の目にうつっていた幼児の私が、リアリティを持って迫ってくるような感じがしました。

なかなか大変な子供だったのだ……

 

久しぶりに、母が綴ってくれた赤ちゃんの日記を開いてみました。

私の誕生から小学校入学までの日々のことを、仔細に書き残してくれていて、読むたびに発見があります。

あらためて1歳~5歳までの記述を読んでみました。

頑固、わがまま、執念深い、強く自分を押し通そうとする、過敏、神経質、集中力がある、数々のエピソードと共にそれらのキーワードが繰り返し出てきます。

どうかこれらの性質が緩和され、優しく素直に成長して欲しいと、母は祈るように綴っています。

そして、この性質はひいおばあちゃん(曾祖母)が甘やかしすぎるからだろうか…と悩む記述もたくさんありました。

曾祖母が私を甘やかしていたとは、意外でした。

私には甘やかされたという感じはなくて、淡々とそばにいてくれた印象なのです。

 

曾祖母は、その当時80を過ぎた隠居の身で、私はほぼ彼女の子守で育ちました。

私が小学校にあがる春、亡くなっています。

曾祖母に関しては、2~3の断片的な日常の一コマと、お葬式で最後のお別れをした場面の記憶があるくらいでした。

あとは、母や叔母からの後々の話で、記憶にとどめている感じです。

今回改めて日記から感じ取れたのは、曾祖母が私に与えてくれたものの大きさでした。

10人くらいの大家族の中、やんちゃな兄にいつもちょっかいを出され、大人たちにはかわいがられもしたが、その強情な性質ゆえに叱られることも多かったらしい私。

曾祖母だけは、そんな私をそのまま受け入れ、無条件にそばにいてくれたのではないか。

それは何とありがたいことだったでしょう。

 

3年ほど前の夏、実家に掛かっている日本刺繍の額(祖母の手によるもの)をスマホで撮影しました。

その画像をみて、ギョッとしました。

だって、その写真に亡き曾祖母が写りこんでいるではないですか!!

そういえばこの部屋は、かつて曾祖母の部屋だった… ひえー……( ゚Д゚)

 

10秒後に気づきました。

なーんだ、これ私じゃん!

スマホで撮影する私の顔が、額のガラスに写っていたというわけ。

びっくりしたなあ、もう (;´∀`)

でも似ていたんですよ、今まで気づかなかったけれど。

顔の輪郭、目のくぼみ具合、とっさに「ひいおばあちゃんだ!」としか思えなかった。

思っていた以上に私と曾祖母の縁は深いのだと思います。

曾祖母が没後50年にして、それを知らせてくれたのかも知れません。

 

    4~5歳頃の絵 家と木と人が描かれている。

まるでHTPテストだ。

 

名も無い日

一年半ぶりくらいに映画館に足を運びました。

『名も無い日』

ニューヨークで写真家として活躍していた主人公のもとに届いた弟の訃報。

家族で一番優秀だった、そして誰よりもやさしかった弟。

安易な解釈や評価を一切拒否する、深い映画でした。

 

全体が「わからない」に満ちている。

遺された親族、それぞれの心に「わからない」がめぐる。

「わからない」が、こちらにも問いかけています。

心の中心を射るように……

 

切ない場面がいくつもありました。

弟が一人暮らす実家に久しぶりに帰った主人公は、ゴミだらけになった家を片づける。

黒ずんたスリッパを買い替え、汚れたタオルを変え、住み着いた猫用のお皿やキャットフード、ゴミとしかみえないおびただしいガラクタを棄てる。

しかし、弟は収集前のゴミ袋から、それらを拾い上げ、元のところに戻している。

彼にとっては、ゴミに囲まれたその空間こそが、自分を守る唯一の安全場所で、ガラクタの一つ一つは、生きていくためのよりどころでもあったのだと思います。

 

私もこの主人公と同じようなことをしてきました。

心のバランスをくずし、掃除をしなくなった母に変わって、帰省の度に自分勝手に実家を片づけた。

物を勝手に捨て、新しいタオル、スリッパに変えた。

半分は自分を納得させるために、やっていたのだと思います。

両親は「ありがとう」と言ってくれましたが、手放しで喜んでいるわけではないことは、感じていました。

 

家族であっても、わからない。

弟からニューヨークの兄に届いた手紙、限界の状況であっただろうに、本音や苦しさが気づかいのオブラードに包まれている。

兄の逃げ場を作っているのが、とても切ない。

 

自分の心すら 簡単にはわからない。

ましてや家族の内面を理解するなんてことは、到底難しい。

それでも尚、わかろうとしているだろうか。

家族ゆえに目を背けていることはないだろうか……

 

目を背けるわけにはいかない映画です。

日比遊一監督自身の身に起こった体験をもとにつくられたということです。

 

     名古屋駅前を見下ろすカフェで

生き物がかり

1か月ほど前、最後の一匹だったアカヒレがとうとう死んでしまいました。

アカヒレの寿命が2~3年といわれるなか、何と10年の長寿。

10年前、10匹で飼い始め、5~6年で5~6匹になり、2年くらい前に2匹になり、この1年は一匹になっていました。

庭のスイートピーの花の下に埋めて弔いました。

主を失った水槽は、1か月そのままにし、家族にもアカヒレが死んだことを、たまたま言わないで過ぎていた。

(というか、いつ気づくんだろうと意地悪な気持ちもちょっぴり芽生え……)

 

先日やっと水槽を丸ごと洗い、庭に干していたら、やっと気づいた夫、「アカヒレ死んだん?」だって。

ほーら、関心がないんだなー、毎日水槽のそばを通っているのに、まるで見ていない。

生き物との相性はこの違いだなと、思ったものです。

何か生き物を飼っていると、日に何度も様子を見ずにはいられない私。

いつのまにか、我が家の「生き物がかり」となった。

生き物の「採集がかり」は娘、子供の頃は、いろいろ採ってきたものです。

成虫だけでなく、カマキリの卵、アゲハの幼虫、ヤゴ、クワガタの幼虫、アマガエル、トカゲなども。

最初こそ、みんないそいそと昆虫ゼリーを買ってきたり、ヤゴのために冷凍赤虫を買ってきたりするのですが、そうやってみんなで準備した飼育ハウスも、いつのまにか「ただ置いとくハウス」になる。

 

気がつけば、私一人が黙々と世話をしている。

クワガタの飼育水槽に霧吹きをしたり、ヤゴにアカムシを与えたり、蝶の幼虫に新しい葉っぱを与えたり。

素人の世話ながら、ヤゴはトンボになり、アゲハの幼虫は見事なアゲハとなり、すべて外の世界に還っていきました。

いろいろ生き物を飼ってきて思うのは、生き物というのは、正しい飼育法だけでは上手くいかなんじゃないかということ。

興味を持って見続ける、心を寄せ続けることがとても大事なんじゃないか……と思うのです。

そして世話をしているこちらが優位なんじゃなくて、きっと小さな命から何かをもらっているのは私の方なんでしょうね。

 

    イトトンボが2匹 色違いで…

 

    大津 竹林院の邸宅からお庭を眺める

 

 

さなげやまに登る

久しぶりに山に登りました。

豊田市と瀬戸市にまたがる標高629m、猿投山(さなげやま)

その日は朝から雨、今日は山登り無理かな…と思いつつ向かう道中に雨は上がり、運良く駐車場の最後の1台分に車も停めれた。

これは登るしかない!!

ただ、半ばあきらめていたので、中途半端ないでたち。

登山靴は念のため車に積んできたものの、靴下は普段用、ジーンズにショルダーバッグの斜めがけというお散歩スタイル。

5年ぶりくらいに履く登山靴は、短い靴下のためか、向こう脛にあたって痛い、途中で我慢できなくなった時のためにスニーカーも持って登ることにした。

ところが小さいショルダーバックには入るはずもなく、予備の袋として使えそうなのは、バッグの底から出てきた名古屋市指定のごみ袋。

この際、恰好など言っておれない、迷わずゴミ袋にスニーカーと上着を入れて持つと、まるで山のゴミを回収して歩くいい人みたいな見かけになった。

ゴミ袋片手にザクザク登る。

普段動いていないので身体が重い。

1時間ほど登ってやっとペースがつかめてきました。

 途中の展望台からの眺め

 

 カナヘビものびのび…

清涼な風が渡っていきます。

密ではないので、他の登山者もマスクフリー。

それぞれのペースで、初夏の山を楽しんでいらっしゃいました。

 

ヒイヒイいっている我らの傍らを、「こんにちは~」とスタスタ、風のように追い越していく若者がいた。

日焼けした顔にかかる長髪を無造作に束ね、なんと足元はわらじ。

その彼に再び会ったのは、こちらがやっと東の宮という神社に着いたとき。

とっくに登頂を終え、下る途中だったようですが、今度はなんと裸足になっていました。

満面の笑みで、神社の階段を下りて来られる姿は、山の神ではないかと思ってしまうほど。

「いい笑顔だったねー、仙人みたい…」と連れの家族。

あんな佇まいでいられたらなあ……

 

それから30分、俗世まみれの我らも、足の不調を訴えつつ、ウグイスやホトトギスの鳴き声を大げさに愛でつつ、無事山頂にたどり着いたのでした。

山頂で食べたミカンと、ぱりんこはおいしかった。

 

霊山といわれる猿投山、パワーをいただけたかな。

こういうことが頭をよぎるあたり、やはり俗世まみれですな……

 

 カエル岩 目と口が描いてあった(;一_一)

 

バラの挿し木

最近、頻繁に強風の日がありましたね。

庭のバラが可哀そうなことになってしまいました。

容赦ない風の力に耐えかねて、こくんと大輪の首を折っていたり、外側の花びらをハラハラと落としていたり。

そしてついには、大きく樹幹が傾き、フェンスによりかかって辛うじて立っていた。

思えばこのバラも植えて9年、いつのまにか老年期に入っています。

かつてはこのような勢いのある株だった。

 2015年頃

 

ここ数年は樹勢が衰え、(私の剪定のまずさも手伝って)かたあしだちょうのエルフのような姿になっていた。

(かたあしだちょうのエルフとは、子供の頃読んだ絵本の題名。ライオンと戦って片足を亡くしたダチョウ、それでも勇敢に動物の子供たちを守り、最後は木になった)

 

ほらほら……エルフみたい。

 

風で傾いた樹幹は、添え木とレンガをあてて、とりあえず真っすぐにしてみました。

でもどちらにしろ、この先かつての勢いは戻らないでしょう。

今のうちに挿し木にして、2代目を育てようと思いつきました。

できた!

どうかうまく育ちますように……

実は今までも挿し木を試したことがあるのですが、新芽は出たものの、庭への定植が早すぎて失敗した経験があります。

今回は慎重に、2年くらいは鉢植えでじっくり育てようと思います。

 

このバラはここに引っ越した年、稲沢の植木市で買ってきたもので、品種はブルームーン。

道行く人が「きれいね」とか「私の好きなバラなんです」とか何人も声をかけてくださった。

娘が美術の授業で描いたこともあった(授業後にバラは先生の机に飾られていたらしい)

開花期は切り花にして毎年部屋に飾った。

庭で息絶えた昆虫や鳥を埋葬して、このバラを手向けることもあった。

そんな思い出深いバラ、これからも庭で咲き続けてほしいのです。

 

挿し木の作業中、私の好きな言葉が頭に浮かんだ。

「明日世界が滅びるとしても、今日君はリンゴの木を植える」(マルティン・ルター)

そう、「明日世界が滅びるとしても、今日私はバラの挿し木をする」

これが今日も生きているってことかな。

 

つるっとすべって

ちょこちょこ、まぬけなことをやらかしてしまいます。

このたびも、和式トイレに足がはまるという、なんとも気分がもり下がるを珍事をやってしまいました。

早く忘れたい……

 

5月とも思えない肌寒い大雨の日に、GW中の唯一のレジャー、東山動植物園に出かけました。

植物園の温室がこの春リニューアルオープンしたのです。

南国の植物が好きな私は、まずはお目当ての温室へ。

 アガベ・テキラーナという多肉植物 

レアなものに出会いました!

職員さんによると、中央の真っすぐに伸びているのはアガベの花芽だそうで、生涯に一度だけ花をつけるのだそうです。

もうすぐ花がみられるのですね。

いいもの見れたなあ……

と気分も上がってきたところで、動物園のエリアに移動しました。

リスと小鳥の森は、雨水がたまって足元が悪く、新しいスニーカーは濡れるわ、泥だらけになるわ……

その上この日は、濡れた床や階段で、何度も足がつるっとすべって、何度かひやっとした。

 

そして冒頭の話に戻るのですが、トイレでも足がつるっとすべってしまったのですね。

個室に入った瞬間、勢いよくつるっと滑って、一瞬で左足が和式トイレの中にはまっていた。

やってしまった( ゚ ρ ゚ )

まだ新しいスニーカーが……(´;ω;`)

気を取り直して、とにかく応急処置をしなければと、備え付けのトイレットペーパーを水で濡らし、気休めに拭いてみた。

今できるのはここまでと、すごすごとトイレを出たのでした。

きれいなトイレだったのがまだしも救いでしたが、気分はどよーん。

 

こういうことは、早く人に聞いてもらったほうが軽くなるものです。

トイレを出てすぐ、「やってしまったよう」と先ほどの残念な一件を家族に伝えると、夫は「フン」と鼻でわらった。

娘は「離れて歩こうっと…」だって。

 

その後、簡単なランチをし、コアラも見た、夜行性動物もみた、爬虫類たちにも会いに行った。

だけど、足元から立ち上る不浄のイメージは終始亡霊のようにつきまとい、気分は盛り下がったままの一日となったのでした。

 

帰宅して真っ先にしたこと、もちろんスニーカーを洗いましたよ。

夕食が少々遅くなろうが、そんなことどうでもいいっ!!

次の日は晴天だったので、紐も洗って干し、スニーカーも日光消毒して、何とか納得。

それでもまだ物足りなかったのか、こうしてブログにまで綴ってしまいました。

こんな話にお付き合いいただいて、ホントすみません。

 

 植物園の温室

 

 

墓地

墓地がきらいではありません。

なんというか、墓地の放つ磁力みたいなものに、ちょっと惹かれるのです。

知らない土地を歩いているとき、車で走っているとき、何か感じるものがあって目をやると、古い塚だったりお墓のようなものがあったり、ということがあります。

私の心象風景の一部に、どうも「墓」というテーマもあるみたいで……

時々お墓にまつわる夢もみる。

今住んでいる土地の昔の姿、それは沼地のほとりに朽ち果てた十字架や長方形の石が並んでいるという夢。

大きな石がゴツゴツと折り重なる土地に降り立つ夢。

土を正方形に掘って横たわろうとする夢。

夢の中ではお墓と認識していないのですが、目が覚めてから、今のはお墓の夢だった…と思う。

そういえば20代の頃、占い師さんに手相とか生年月日をみてもらった時も、「墓と出ました」と言われたなあ。

 

先日、数人で話している時に墓地の話になりました。

その中の一人は若い頃、何か苦しいとき、県外にある先祖のお墓に車を飛ばして行っていたのだそう。(何と真夜中でも……)

そこで、亡き祖父母に気持ちをぶつけつつ、しばらく時間を過ごしていたのだとか。

墓地で癒されていたのかなって今では思ってるそうです。

 

私もいつだったか実家の墓地で、いくつも並んだ古いお墓を眺めているとき、ふいに湧いてきた思い。

「それぞれに大変な人生だったかもしれないけれど、みんな無事に一生を終えて、亡くなったのだ……」

いつか死ぬ、あたりまえのことですが、その時の私は妙に安堵感を覚えたのでした。

先祖とつながる体験でもあったような気がします。

 

星野道夫さんの「森と氷河と鯨」という本に、一人の不思議なアラスカ先住民が紹介されています。

名前は「ボブ・サム」

彼は多くのアラスカ先住民の若者がそうであるように、新しい時代の中で行き場を失い、酒におぼれながらアラスカ中を転々と彷徨っていた。

しかしあるとき、生まれ故郷シトカに帰ってきて、突然町はずれの森の中にある、朽ち果てたロシア人墓地の手入れを始める。

たった一人、黙々と木々や草を取り払う10年という歳月をかけて、見違えるような墓地に変えていった。

そして同時にボブはその時間の中で、いつしか遠い祖先と言葉を交わし始め、次第に癒されていく。

実はその場所は、19世紀初めにロシア人がやってくる以前、ボブの先祖クリンギット族の古い神聖な墓場だったのです。

やがてボブはクリンギット族の古老たちから新しい時代のストーリーテラーに選ばれる。

神話など、クリンギット族が受け継いできた物語を伝承する役目を託されて生きることになるのです。

 

シトカの町でボブは不思議な存在だったみたいです。

決して身ぎれいとは言えず、にこりともしない、時間などの約束も忘れてしまう。

変人扱いされてもおかしくないボブのことを、町の人たちは「ああ、ボブのことか、知ってるよ」と微笑みをもって語る。

通りで遊ぶ子供たちは「こんにちは、ボブ」と呼び掛けてくる。

10年と言う歳月をかけ、たった一人で墓場を掃除することで癒されたボブの存在が、実は町の人々の心を癒してきたのではないか、と著者は語っています。

 

クリンギット族の墓場に座るボブ 「森と氷河と鯨」」から