大雨の夜に

先日の大雨の日、娘が帰り道、蝉の幼虫を保護しました。

道路わきの側溝にはまり、動けなくなっていたのです。

足の一本が途中からちぎれています。

 

庭先の樫の木の根元に置くと、そろそろと幹を登り、「ここだ」という場所に落ち着きました。

それもつかの間、ふとしたはずみで転げ落ちてしまいました。

切り株の隙間に落ちた状態で背中が割れ、羽化が始まってしまいました。

このままでは、そのうち伸びてくるであろう羽が、切り株の隙間で、ぐしゃぐしゃになってしまいます。

どうしよう、どうしよう・・・

羽化はどんどん進んでいます。

時間がない・・・

雨もどんどん激しくなってきました。

 

このままでは絶対助からない、いちかばちか家の中に入れよう。

そっとつまんで玄関に入れ、そばにあった麦わら帽子をそばにおきました。

うまくつかまってくれるといいけれど・・

 

既に脱皮し、繊細な成虫の姿、不自由な足で賢明にはい回り、場所を探しています。

私も娘もかたずをのんで、祈るように見守りました。

すると麦わら帽子を少し登って動かなくなり、羽が伸びてきました。

うまくいった! これで生きられる!

娘と感動の余韻に浸っていました。

ところが・・・

 

一度ストレスを受けた羽は、左右対称に伸びることができなかったのです。

それでも不自由な足で必死に捕まっていましたが、とうとう力尽きて下に落ちてしまいました。

なんとか、生き延びる方法はないだろうか・・

命がつきるなら、最後は自然の中に返してやった方がいいだろうか・・

 

目の前の必死で生きている蝉を前に、心は揺れます。

考えた末、軒下にシマトネリコの植木鉢を置き、その中で一晩過ごしてもらいました。

朝見に行くと、まだ生きています。

 

蝉は木にとまって樹液を吸わないと生きていくことはできません。

鉢植えのザクロの木にとまらせようとしましたが、その力はありませんでした。

シマトネリコの枝を切ってきて、鉢の中に置いてみました。

すると、土の上を這っていた蝉が、枝につかまりじっと動かない。

どうやら樹液を吸っているみたいです。

 

やった!

こうやって家で飼えるかもしれない。

少しの望みをつないで、仕事に出かけました。

 

でも・・・

その日帰宅すると、蝉は死んでいました。

 

この子、頑張ったね・・・

娘と、シマトネリコの根元に埋めました。

 

人は自分の物語で、はかろうとします。

「蝉は何年も土の中で過ごして、成虫になってからはあっという間、はかない生き物だね」とか。

でも蝉にとってはきっとどうでもいいこと、その瞬間がすべて。

 

一晩うちに来てくれた蝉も、その本能のままに、すべてのエネルギーで生きたのです。

おせっかいな人間と出会ったのが、良かったかどうかはわからない。

でも私は出会えてよかった。

 

ちょっと 心が 軽くなる

自分なりの、ちょっと心が軽くなる方法。

二人の方から聞きました。

 

まずお一人目です。

いかなる時も「これでいいのだ」と自分に向かってつぶやくのだそう。

「これでいいのだ」

そう、天才バカボンのパパの口癖ですね。

うまくいかなかったと思える時でもも、自己嫌悪に陥りそうなときでも、とにかく「これでいいのだ」

 

今更ながらですが、バカボンのパパ、すごい人です。

昔は困ったパパだと思っていました・・( ゚Д゚)

 

そして、お二人目の方法。

「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と、時折唱えるのだとか。

彼女は仏教系の学校出身で、学生時代に沁みついた言葉。

お釈迦様がこの世に誕生したときに、右手を天に、左手を地に向け唱えられた言葉だそうです。

深い意味がありそうなこの言葉の真意には、ここではふれないことにして・・・

彼女にとっては「われはこの世界で、サイコーに尊いなり」と思えてしまう言葉なのだそうです。

これもなかなかよいですね。

 

どちらの言葉も、自分をまるごと包み込んでくれそうです。

 

私はというと、先日風呂上がりに、口をついて出た言葉。

「今日もいい一日だった」

一日の中身を「いい悪い」で判断するのでなく、あたふたしながらも今日を一日過ごせた!

そんな自分への愛おしさが言葉になったのだと思います。

 

 

 

 

能を観に

名古屋能楽堂に、能を観に行ってきました。

演目は「杜若」と「藤戸」

間に狂言の「杭か人か」

 

「杜若」で、異世界に連れていかれました。

もちろん面をつけた人間が舞っているわけですが、とてつもない何かが宿っている感じ。

圧倒的な存在感、場の空気感。

その何者かと客席にいる自分との、魂の交流。

理由もなく、涙がとめどなく流れていました。

 

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

ここにどのような神様がいらっしゃるのかは存じ上げないがが、身に染みるようなありがたさがこみあげてきて、思わず涙がこぼれてしまった。

西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌

まさにこの歌の境地です。

 

能とは、心霊と出会い、対話し、亡者を供養するためのものだそうです。

おそらく能楽師は、頭で考えながら舞うのでなく、徹底的に型を身体にたたきこみ、その空っぽの入れ物となった身体に、心霊を迎え入れるのではないかと思います。

舞いの所作、衣装、笛や鼓の音、リズム、舞台、あらゆるものが霊を迎え入れ、供養するための要素なのでしょう。

その場に身を置くと、だんだんと意識のレベルが下がっていくのを感じます。

これは本当に神事だなと感じました。

私も少し、浄化されましたかね・・・

 

昔から、能装束や能面に何故か惹かれていました。

やっぱり能はいいなあ。

 

 

 

 

 

庭木の手入れ

名古屋は雨模様。

庭の草木が喜んでいます。

 

さて、生活感あふれるこのノート。

子供の学習帳の再利用、「庭木の手入れ」の文字もたどたどしく・・・

我が家の庭の樹木別に、季節ごとの手入れをまとめています。

 

引っ越し前からある樫やナンテンに加え、自分たちで植えたトネリコ、オリーブ、バラ、ドウダンツツジ、ソテツ、トキワマンサクなどなど。

計画性なくその時にたまたま目についたものを、テキトーに足していったので、まるでごった煮のような庭です。

植えてから、”こんなに大きくなる木なんだ~”とかいろんなことがわかってきて、テキトーさを反省しました。

数年後の姿とか、季節ごとの姿とかを見越して植えるべきだった・・・

 

でも縁あってうちの庭にきて、根付いてくれた木たち。

それなりのまとまりのある庭に、との思いで、季節ごとに自分で剪定してみます。

それがなんとも楽しいのです!

ひたすらにチョッキンチョッキン。

 

昔、実家がお世話になっていた庭師さんの言葉を思い出しました。

「わしはこの仕事が好きでなあ、寝ても覚めても仕事がしとうてたまらん。休みの日がなければと思う・・」

軽快なはさみの音を響かせながら、にこにことおっしゃったものでした。

 

そんなことを思いだしながら、チョッキンチョッキン。

心がすうっと解放されていくような時間です。

 

アジサイが雨でイキイキ

 

 

子供の心は

ある女優さんが、まだ幼い息子さんとTVのトーク番組に出ていらっしゃいました。

 

司会者が、ある出来事について男の子に質問します。

「あの時どう思ったの?」

すると、間髪おかず、お母さんが代わりに答えます。

「大変だったわよねえ、でも楽しかったでしょ」

男の子は微妙な表情。

 

司会者が男の子にプレゼントを渡すと、お母さんがすかさず、「ありがとうは?」

男の子は、オウムのように「ありがと・・」

男の子の中から、自分の言葉が出てくる前に。(必ずしも言葉ではないかもしれないけど)

その後もお母さんと司会者の間で、一見子供中心、でも子供の心は置き去りのハイなトークは続きます。

 

僕を抜きにして大人が話してる。なのに、ここでの主役は僕になっているらしい・・・

男の子の微妙な表情は、何を伝えたかったのでしょう。

 

いつか、レストランの待ち時間に見た光景。

友達にオモチャを貸してあげたくない男の子。

するとお母さんがオモチャを取り上げ、代わりに友達に「どうぞ」

男の子は、顔を伏せて耐えていました。

 

一緒にいた娘が「あれはダメだよ・・」とぽつり。

私も同じ想い。

大人だって人に貸したくないもの、貸したくない時、いろいろありますよね。

男の子が抑え込んでしまったエネルギーは心の負荷の一つとなってしまいます。

心の負荷はできるだけない方がいい。

人生の重荷になってしまうから。

 

親は自分や世間のルールよりも、子供の心を守るべき時があるように思います。

肝心な時守られた心は、こだわりなく、健全に成長していくものだと思います。

 

大人になっても苦手なことをひもといていくと、幼い時の体験に行き当たることがあります。

挨拶が苦手な人は、幼い頃無理やり挨拶をさせられた経験があったりなど。

大人が思っている以上に、子供の心に根を深く張ってしまうことだってあるのです。

かくいう私も、自分のルールに従って、子供の心を置き去りにしてしまった経験がいくつもあるのですが・・。

 

子供にはその子の”今”があること、大人はもっと知らなければ・・・!

そしてそのピュアな世界を追体験することができるのも、周りの大人の特権ですね!

 

  お日様いっぱい浴びて・・  庭でとれたイチゴ

 

 

今日は祖父の命日

お天気に恵まれ、気持ちの良いゴールデンウイークですね。

 

今日は、父方の祖父の命日です。

亡くなって30年。

30年前、ゴールデンウイーク前に急に容体が悪くなったため、急きょ旅行をキャンセルしたことを思い出します。

 

祖父は、自分の信念に従って、周りに左右されることなくシンプルに生きた人ではないかと思います。

家族の中でも孤高の雰囲気を漂わせ、子供心にも近寄りがたい感じがありました。

きりりとした横顔は鷲か鷹を思わせました。

 

けれども晩年、私が成人するころからか次第に雰囲気が柔らかく・・・

距離がだんだん近くなり、ニコニコとお小遣いをくれたり、私が話し相手になることが、増えていきました。

今の私の記憶には、晩年の優しい声と話しぶりが一番残っています。

 

祖父と二人で、出かけた思い出が記憶の中では2回あります。

一回はまだ私が5歳頃のこと。

クリスマスツリーにする木を、近くの山に探しに行きました。

おじいちゃんとクリスマスツリーの木を探しにいく!!

ワクワクしながら、ついていきました。

”絵本に出てくるような、堂々とした木”を担いで帰る姿を想像しながら・・・

ところが山の入り口をほんの少し入ったあたりで、「おお、いいのがあった」祖父はあっさりと木を選びました。

私の理想にはほど遠い、ヒョロヒョロと頼りない、形もアンバランスな木・・

絵本に出てくるようなツリーゲットの夢は、あっという間に終わったのでした。

 

もう一つの一緒に出掛けた思い出は、私が大学生の時。

祖父の早世した弟の家族を久方ぶりに訪ねることになり、私が祖父に同行したのです。

二人で電車に乗り、のどかな小旅行。

訪問を終えるころ、祖父は急に思いついたのか、弟のお嫁さん(といっても既におばあさんでしたが)に一緒に我が家に遊びに来るよう誘いました。

帰りは思いがけず3人の道中。

ずっと疎遠だったその家族、とりわけ弟のお嫁さんに、祖父の温かい気持ちを感じました。

洗練されたその方から得るものは多く、私にとっては大切な出会いでした。

 

厳しく頑固な面が主に表に出ていた祖父ですが、内面は粋で、やさしさを秘めていたことが、今になってわかります。

生きていた時以上に、その存在を近くに感じています。

 

 

ハゴロモジャスミン咲き始めました。

 

 

 

「騎士団長殺し」を読む

村上春樹さんの新刊、読みました。

「騎士団長殺し」

 

村上春樹さんの小説にはずいぶん助けられるような気がします。

登場人物に自分を重ね合わせたり、物語の深みに入っていくことで、私も自分の無意識にアクセスするのです。

今回も存分にそれを味わいました。

登場人物たちの、幾重にも重なり混然一体となって進む再生のプロセスに、いつのまにか私も巻き込まれている。

読み終えて、きっと私の中にも小さな種がまかれたことでしょう。

これでいいんだ、と背中を押された気もします。

 

「顔のない男」は主人公に言います。

「お前が行動すれば、関連性がそれに合わせて生れていく」

人は時に、目の前に現れた道をただ進むしかないことがあります。

人生は自分の意志で切り開いていけることばかりではない・・・

でも、人が生きていくその背景にはちゃんと何かしらの力が働いている。

人生の節々で、また日々の中で、本当にそう感じます。

 

また、ひとりの人が、内面に深く降りて再生を図る時、それはひとりに完結したプロセスではない。

その作業は周りの事象も一体となった渦となり、全体を運んでいくものだと思います。

一見、人を助けているようにみえても、それは自分のプロセスそのものであったり。

存在どおしに上下関係などなく、深いところですべてはつながり、必然によって事は起きている・・

物事は共時的に進んでいくのだと思います。

 

登場人物の一人が最後の方で語る言葉です。

「私にこれから何が起こるのかを見届けてみようって。それがすごく大事なことであるように思えた」

一見受け身であるようにみえながら、とてもどっしりとした潔い姿勢ではないかと思うのです。

 

生きているだけでいい

母の命日に、母の夢をみました。

夢から覚醒する間際、夢か現かでまどろんでいる中で、「生きているだけでいい」という言葉が下りてきました。

夢の内容は覚えていないのに、この言葉だけがしっかりと目覚め後も残っていました。

 

「生きているだけでいい」

母からのメッセージなのかなと思いつつ、その言葉が意味するところを、数日間考えるともなく考えていました。

 

そんな中、高齢の父の心配もあり、実家に帰ってきました。

最近とみに体も衰えてきて、孤独からの失敗も多い父です。

様子を目の前にすると、自分のものさしを振りかざしたくなります。

もっとこうであってほしい・・

 

「生きているだけでいい」

まだ未消化のこの言葉を、何度も思い返しました。

この言葉の本当の深さをいつの日か理解し、少しずつでも自分の中に根付かせたいと思います。

 

今回の帰省は、今後のことを話し合うのも目的でした。

実家に泊まった日の朝、やはり目覚める間際の時間、「一番大切なのは父の気持ち」という思いがふいに浮かびました。

(どうも私は夢や目覚める間際、意識のレベルが低い時に、どこからかメッセージを受け取る傾向があるようです)

 

そうだ、一番はやはり本人の気持ち。

父の気持ちよりも、子供にとっての安心を優先しそうになっていたことに気づかされました。

本人の気持ちを置き去りにしては、肝心の本人の力も出ないでしょう。

 

今回親子3人、それぞれの意見、気持ちを話せたことはよかったなと思っています。

まだ初めの一歩ですが・・・

 

3月ももう終わりですね・・・

 

 

2017年3月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : naomi-room

脳はパターン化する

3月も半ばなのに、寒い日が続いています。

とはいえ日差しはしっかり春なので、何を着ようかと迷うところ・・・

冬用のコートはもっさりして気分が乗りません。

先日、白いトレンチタイプのスプリングコートを買いました。

軽くて、春らしくて、花粉対策にもなるし、気持ちがアップします。

 

長年、スプリングコートが苦手で、着ることはありませんでした。

20代の頃、トレンチタイプのスプリングコートを買ったものの、うまく着こなせないまま、その年限りで箪笥の肥やしに。

それ以来、スプリングコート=「苦手、似合わない」と脳がパターン化して認識してしまったのですね。

でも本当は、たまたまその時チョイスを間違っただけで、スプリングコート全般が似合わないわけではなかったはず。

 

洋服のことだけでも、いろいろタブーを作っていました。

ロングカーディガンは似合わない、ガウチョパンツなど、身長150センチの私には無理無理・・。

でも本当は着てみたい・・

そう、着たいものを着よう、最近はそう思い始めたのです。

ためしてみると、ロングカーディガンも、ガウチョも案外いけるではないですか。(人の意見はこの際無視)

 

人の脳は赤ちゃんの時から、周りの出来事を「認知、選択し、まとめる」ということを繰り返しています。

すべてを記憶するのでなく、独自に選択してパターンを作り出し、そのパターンにあてはめて処理しようとします。

パターン化は、過去の経験を今に役立てる素晴らしいシステム。

美味しいものを手に入れる、危険を回避するなど、生き延びるのにも不可欠な能力。

 

でもそのパターン化の中には、こう着した窮屈なものもあるかもしれません。

パターンは、今の自分に役立つよう、常にバージョンアップしていく方がいい。

人の脳はクリエイティブで、常に新しいパターンを作り出そうとしているのですから。

 

抵抗しているのは、私自身なんですよね・・・

 

お寺コンサート

アコースティックギタリスト、わたなべゆうさんのコンサートに行きました。

場所は、曹洞宗 成道寺というお寺です。

ギターのコンサートも、お寺コンサートも初めての経験。

 

とてもいいコンサートでした。

ギターの音色は癒されますね。

そしてアーティストの内面がとても豊かに表現される楽器なんだな~と感じました。

美しい調べだけでなく、その裏側にある、闇や凄みのようなものがビシビシとんできて、魅力的な演奏でした。

 

お寺の本堂に響く音色。

お寺がこの世とあの世をつなぐような所であるとしたなら、大切な故人との境界も曖昧なのでしょうか。

場の力なんでしょうね。

何かいい感じがありました

 

帰りにカバーアルバムをを求め、サインをしていただきました。

一日の終わりに家事をしながら、聴いてます。

アコースティックギターの音色が築40年の我が家に沁みわたります(今年いいスピーカーを買ってよかった!)

家も私も、一日溜めたものががスーッと流されていくようです。