自己実現

ユング心理学についてのYouTubeをみていたら、「自己実現」について語られるくだりがありました。

ときどき、TVなどで識者が使っているのをみかけますが、人によって解釈はさまざまのように見受けられます。

 

私がこの言葉を初めて気にとめたのは、カウンセリングの専門学校で学んでいた最初のころ、講義の中でさらっと出てきました。

ん、自己実現って何?

例えば、社会的に成功を収めたアーティストは自己実現した人生、ということになるのだろうか。

うーん、わかるようなわからないような…

いまひとつスッキリしなかった私は、講義後、担当講師に質問してみた(いつも教室のすみっこでひっそりとしていた私としては、とても珍しい)

講師は私の質問に直接的な答えは示さず、アブラハムマズローの欲求5段階説を紹介してくれた。

 

その説とは…

人の欲求はピラミッド型の5段階の階層をなしており、一番下が①生理的欲求、②③④と上に続き、最上層が⑤の自己実現欲求となっている。

⑤自己実現欲求(自己のうちに潜在している可能性を最大限に開発し、実現して生きる)

④承認欲求(人や社会から認められたい) ↑

③所属・愛情欲求(グループに属し、愛情を求める) ↑

②安全欲求(危険のない安全な生活) ↑

①生理的欲求(食欲、睡眠欲、排泄欲) ↑

 

下層の欲求が満たされるごとに、段階的に上へと進み、最終的には最上層の⑤自己実現欲求を満たそうとするわけです。

ふむふむ、①~④はわかりやすい、でもやはり⑤の自己実現はわかりにくいなあ…と思った。

???な顔をしている私に講師は、「余計混乱させちゃったかな? アハハ…」とのたまい、教室を去っていきました。

 

今思うと、あのとき講師は、「これから長い時間をかけて、あなた自身が答えを求め、あなたの自己実現を探求するのだ」とこちらに投げかけたような気がするのです。

あれから十数年がたち、少しばかり私のなかで自己実現とはこんな感じか…くらいの輪郭はみえてきた。

自分が実現するにはまだまだ道は遠いですが…

 

人の評価など気にしているうちはまだ④の承認欲求のあたりをうろついているのだと思う。

ただ私の感覚では、階層の境目はもっと曖昧なものではないかと思う。

そしてどの段階にいたとしても、①~⑤すべての欲求をいくらかずつ包含しているのではないかと思う。

人は複雑なものだと思うから。

 

ときどき、限りなく自己実現に近い人生を歩んでいるのだろうと思わせる人を、TVなどでみかけることがあります。

例えば、農業とか漁業を生業にしてきたお爺さんの、しわ深く日に焼けたお顔のなんと魅力的なこと…

誰かに評価されようなんて意識すらない人生。

ただ自然の中で、来る日も来る日も好きな仕事をし、ほどほどに生活の糧を得て、自分が満ち足りていることがすべて。

この方たちの圧倒的な存在感の前では、自己実現なんて言葉すら形見が狭いよ……

 

       ねーこは こたつで 丸くなる ♪♪

 

帰省

岡山の実家に帰省してきました。

夏ごろから帰りたいと思いつつもタイミングが合わず、先延ばしにしていたので、やっと帰れてほっとしています。

 

施設にいる父との面会が許され、急きょの帰省でした(コロナで面会制限が続いていた)

一年ぶりに父の顔をみて、一方的だけど声をかけることができた。

実家と、母方の家のお墓参りもできた。

高齢者住宅にいる義理の父にも会いに行けた。

兄とも久しぶりにゆっくり話せた。

こうして滞在中にあれこれと動きながら、生まれ育った土地のパワーを存分に浴び、エネルギーチャージをしているのだろうと思う。

 

生物にとって生まれた場所には、その存在を裏付ける特別な何か、があるのではないかと思います。

サケはその鋭い嗅覚で水中のアミノ酸組成を嗅ぎ分けて、必ず生まれた川に戻ってくる…

動物は帰巣本能に従って、元いた場所に帰ってくる…

生物としての私もしばらく帰っていないと、とにかく一度帰らねば……と内なるものが疼きだす。

自分を育んでくれた土地、水、気といった環境的なもの、先祖の気配、そういったものに誘われている感じがする。

いつも帰省すると疲れるどころか、元気になって帰ってくるのです。

今回は7か月ぶりのエネルギーチャージでした。

 

フル充電したうえ、強欲な私は、行きの倍の重さになったトランクを軽々と持ち帰ったのでした。

増えた中身は、兄からかっさらった高そうな日本酒(私に価値はわからないが)

ちょうど食べごろを迎えていた大きな柿やかんきつ類(雨にぬれながら兄が採ってくれた)

帰り、新幹線の荷物棚にこの異常に重いトランクをのせようとして、おっとっととよろけたが、隣席の男性がさっと立ち上がり手伝ってくださった。

ほんとうにありがとうございました <(_ _)>

 

      福山城 福山駅のホームからこの近さ

不確かさ

十数年前、心理学の基礎を学んでいたとき「不確かさの受容」という言葉に目がとまりました。

論理療法が目指す、精神的に健康な人の条件としての、9つの項目の一つとして示されていたものです。

その当時の私に刺さったからこそ記憶にとどめたわけですが、以降、私と相性の良い言葉の一つとなったようです。

 

子育て(この言葉にも少し違和感をもちますが)など不確かさの最たるもの。

将来どんな風になるかなんてわからないし、見届けられるわけでもない。

今を精いっぱい、一緒に時を過ごすだけ。

 

コロナ禍もあって、以前よりも確実に不確かなことが増えました。

今までの当たりまえが、必ずしも当たり前でなくなった。

帰省すれば施設にいる父にいつでも会いに行けたのに、面会制限で会うことができない。

この秋も、一度実家に帰ろうと思いつつ、色々と条件がそろわず、なかなか日程を決められない。

普段の予定をいれながらも、一方で帰省のタイミングを延々と探っている不確かさが隣にある。

 

自分の健康だって、不確かなものです。

いちおう元気と思っているけれど、身体の中まで見えないのでわからない。

 

不確かさは、落ちつかなかったり、不安な面もある。

ただ、生きていくことはそういうものだと思うのです。

絶対に確実なんてない、自分がコントロールできることなどほぼない。

外的な要素が大きく関わってくる。

社会の動き、人が織りなすコミュニティ、地球環境、時の流れ、ありとあらゆるものと相互のなかにいる。

多層的に動いている。

 

でもね、それはは救いだとも思うんですよ。

自分の行いがきっちりその単独の結果として返ってきたら…

先のことがが青写真のようにみえたとしたら…

私はちょっとやっていられないかも(それがたとえ好ましいものであったとしても…)

 

この世は案外うまくできているよ、と根拠もなく思っている私。

不確かさとともになんとか今日も過ごしております!

 

      兄弟かな?… 同じ顔の色違い

またうっかり

またやってしまいました。

仕事の帰り、ちょうどお昼になったので、通りすがりのコメダにはいった。(名古屋といえばコメダ、私は10年ぶりでしたけど)

カフェはすいていて、ゆっくりランチを楽しんだあと、レジで伝票を出す。

「1100円です」と店員さん。

そのときやっと気づいた。

ない、ない! お財布がない!

とっさにあわてたけれど、実はこういうときのために準備しているお金がある。

定期入れに1枚ずつ折りたたんだ、千円札が2枚。

胸をなでおろしながら、二枚の千円札を一枚づつ広げて、トレーにのせたのでした。

何かを察したらしい、二十歳くらいの店員さんの笑顔がやさしかったです。

 

いったいいつになったら学習するんだろう。

何度も同じようなうっかりを繰り返している。

かご一杯の食料品を前に、スーパーのレジでお財布がないことに気づいたのも一度や二度ではない。

電車の定期を忘れて、空しく現金を払う。

スマホを忘れて、緊急連絡が入っていないことを祈りながら、一日を過ごす。

日傘や傘はいろんなところに忘れて、何度とりに行ったことだろう。

 

うっかりのたびに、決心はするのです。

もう、これをを最後にしようと。

何日かは注意している。

出かける前にバッグの中身をチェックする。

「財布、スマホ、マナカ(交通カード)筆記用具、4点セットOK!」

荷物が複数のお出かけの時は、電車を降りる、お店を出るなどの移動のたびに個数をチェックする。

「バッグ、紙袋二つ、傘、4点OK!」といった具合に。

でも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざどおりに、たちまち元ののうっかり体質に戻っている。

チェック習慣を自らに課したことも、いつのまにか忘れている。

 

そういえば、自転車で子どもの参観日に行ったのに、そのことをすっかり忘れ、歩いて帰ったこともあったなあ。

小学生の時は、寄り道した友達の家にランドセルを忘れて帰ったっけ。

思いだすと枚挙にいとまがないです。

 

定期入れの二千円、このたび三千円に値上げしました。

でもそこじゃなくて、ホントに気をつけなければね……

 

     庭にオンブバッタの大量発生

ありがたや~

ちょっと心配なことがあったのですが、さきほど解決。

ほっとしているところです。

昨日のこと、京都の和菓子屋さんから、東京、宮城、岡山の3つの親戚にお菓子を送ったのですが……

 

一筆箋に、日ごろのお礼の気持ちをしたため、それぞれの菓子箱に入れてもらうことにした。

もちろん東京、宮城、岡山と文面は違います。

東京宛の品はすぐ決まったので、すぐその場でいれてもらったので、間違いない。

宮城、岡山宛にはオリジナルの詰め合わせをお願いしたので、「箱詰めに少し時間をください」とお店の方が言われた。

「では、この一筆箋のお手紙を一枚ずつそれぞれの箱に入れてください」とお願いして、支払いを済ませお店を出た。

まぬけなことに、宮城宛の箱にはこっちの手紙、岡山宛にはこっちの手紙と指定するのを忘れていた。

同じ品なので問題なしと、とっさに思ってしまったのですね(自分のまぬけさに、ほとほとあきれる……)

 

お店を出て二時間後に、はっと気がついた。

このままでは一筆箋のお手紙が、宮城と岡山、入れ替わってしまうかもしれない、しかも50%の高確率で……

すぐお店に電話しようかと思った。

でも、きっともう発送に回されているに違いない、間に合ったとしてもきれいに包装済だったら、それをといて包みなおしてくださいなんて、お店の方に申し訳ないではないですか……

一分ほど頭を巡らした結果、「よし、お手紙が逆になっていたら、いさぎよく先方に謝ろう」と心に決めた。

幸いどちらも大らかな方たちなので、私の失態を笑って許してくれるに違いない……

 

一晩が過ぎ、今朝うちの電話がなった。

なんと昨日の和菓子屋さんからで、「申し訳ありません、東京宛の送り状の控えを渡し忘れていました。そちらに郵送させていただきましょうか」と、お詫びとお尋ねの内容だった。

うちは控えは無くても問題ない旨を伝え、こちらは一件落着。

そしてこれはチャンスとばかりに、宮城、岡山の発送状況について聞いてみたら、「ちょうどこれから、お包みするところでございます」とおっしゃるではないですか。

かくかくしかじかとこちらの不注意を伝え、一筆箋の相手先を正しく合わせてもらうことができました。

よかった!!

ありがたや ありがたや……

偶然の出来事(送り状の控えをもらい忘れ、電話をいただいたこと)と、店員さんのやさしい対応に感謝です。

 

     余香苑 (退蔵院)

母と本

読みかけの本があるというのは、それだけでちょっと嬉しいものです。

日々、続きを読む楽しみがある。

 

私を本の世界に導いてくれたのは、母でした。

自分が子供の頃に読んで面白かった本、感動した本を、成長に応じて与えてくれた。

いかに良かったかの語りと共に……

おやゆび姫に始まり、シンデレラ姫、アルプスの少女ハイジ、小公女、小公子、秘密の花園。

赤毛のアン、ああ無常、あしながおじさん、嵐が丘などなど。

中学生から高校生頃には、シェイクスピア、ジェーン・エア、風と共に去りぬ、伊豆の踊子など薦めてくれた。

 

そしてこのころ親子で、運動周作さんや、佐藤愛子さんのユーモアエッセイにはまりました。

遠藤周作さんの「狐狸庵閑話シリーズ」、佐藤愛子さんの「娘と私の部屋」を買ってきたのも母です。

それらの本を入り口に、遠藤周作さんの「海と毒薬」や「沈黙」「白い人・黄色い人」など、シリアスな作品も読むようになり、私の中に新しい扉が開かれていったように思います。

高校生の頃は、歴史小説にはまりましたね(友人たちがマッチやトシちゃんに夢中な中、義経や信長を信仰していた)

そのきっかけになったのも、母の本棚にあった永井路子さんの「北条政子」がとても面白かったから。

 

田舎の大家族のお嫁さんであった母は、それなりに気苦労の多い毎日ではなかったかと思います。

一日の内、好きな本を読む時間とそこから得られるものに、どれだけ助けられていたことでしょうか。

なので、母がたまに町に出たときに必ず立ち寄るのは本屋さん。

一通りの買い物や用事を済ませ、食堂でお昼を食べ(今でいうランチですね)帰りのバスの時間まで過ごしたのは、商店街の本屋さん。

そして、自分のための雑誌や小説、子供たちのための本を買いました。

 

母の影響で、私も本が手放せないタイプの人間となりました。

そして今、母の指向とはまた違う、自分なりの読書歴を歩んでいるところです。

 

      プリン・ア・ラ・モード (´▽`)わーい!

 

死にゃあせん

「死にゃあせん」

娘が最近はまっている言葉だという。

「小さいとき、どっかで誰かが言ってた気がするんだよ」

はいはい、覚えがありますよ。

おそらく私の実家あたりで聞いたのだと思います。

「食べても死にゃあせん」

「少々失敗しても死にゃあせん」

いかにも実家の父や、先代の祖母が言いそうな言葉です。

岡山弁で「死ぬほどのことではない」の意味です。(訳すほどでもないですが)

どちらかというと乱暴ともとられる岡山弁、「死にゃあせん」ときっぱり言い切る方言の名調子も手伝って、幼い娘の記憶に刻まれたのでしょう。

 

そしてどちらかというと、万事にいい加減なわが実家、「死にゃあせん」とか「まあ、これでこらえてもらおう」とか自分を楽にする言葉が、生活のなかにあったように思います。

食べても死にゃあせん、嫌われても死にゃあせん、忘れても死にゃあせん、しくじっても死にゃあせん…

何ときっぱりとしたおおらかな言葉でしょう。

言葉の持つ力とともに、発した人の温かみも包含している。

 

いっそ私が座右の銘にしたいくらいです。

そしていつか人生の終わり、つまり「死ぬ」を迎えたときには、今までの幾万回もの、死にゃあせんかった出来事に感謝しつつ旅立ちたいものですな……

     建仁寺 法堂 雲龍図

きりのなかの はりねずみ

少し前に出会った絵本 「きりのなかの はりねずみ」

 

ノルシュテインとコズロフ/作  ヤールブソワ/絵  こじまひろこ/訳

 

読むたびに、発見があります。

ある時は、子供だった頃の感覚が甦る。

夢中で遊んでいるうち、いつしか日はとっぷりと暮れ、異世界がひたひたと迫っていることを知る刹那。

冷たいしずくが、つつっと背中を伝いおりていくかのように、根源的な孤独をふいに感じた昼下がり。

 

ある時は、親としての自分をやんわりとたしなめられる。

誰にも侵すことのできない、子どもの世界をほんとうに信頼しているか。

子どもを見守るものが、この世界にはあまたにあることも思い起こさせてくれる。

それぞれのやり方で、つかず離れずの優しさで。

 

ある時は、自分が人間という特殊な存在であることを突き付けられる。

人間社会のすぐそばに息づく、無数の命の気配をいつも感じているだろうか。

自分たちだけのフィールドに生きているかのように勘違いしてはいないだろうか。

人間関係とよくいうけれど、生き物関係はどうなっているのだろう。

 

この絵本に人間は登場しません。

ただ一行、「とおくのむらから うたごえや バラライカのおとが きこえてきます」とあります。

はりねずみが、川に沈んでしまいそうになっているとき……

 

今、あらゆる均衡が危うくなっているような気がします。

力を誇示し、押し通そうとするものたち。

その勢力が、閾値を超えると取り返しのつかないことになるのではないか……

人間社会も、生き物社会も。

 

私に何ができるのでしょうか。

心の深みに降りていくのを助け、考えさせられる絵本です。

 

虫食堂

緑が生い茂るこの季節、うちの小さな庭は、虫だらけ。

彼らのすさまじい食欲に、木々の葉っぱは無残なことになっている。

大小の穴だらけの葉、レース状になった葉、茶色に変色してボロボロになった葉。

 

サンビタリアの花は咲くそばから、全てバッタに食べられるので、ただの草みたいになっている。

エゴノキにはおびただしいコガネムシ。

シマトネリコには毛虫、緑色の巨大な芋虫、カミキリムシなどがひそんでいる。

数年前など、一晩ですべての葉っぱが食いつくされ、坊主になった木もありました。

 

害虫スプレーを噴射すればよいのは知っている。

でも……

虫も生きにくい環境でなんとか生きているんだろうなと思う。

新鮮なごちそうをお腹いっぱい食べられる場所があってもいいではないか……

何より、私は虫を眺めるのが好きなのです。

殺生はしたくない。

「よし、うちは虫食堂でいこう!」といつか思ったのです。

 

もとより風情も何もない庭。

よそのデザイン性のあるお庭をみると、羨ましく思う。

それに比べ我が家は、たまたま目についた木を、適当にぼふっぼふっと植えただけの、庭というよりウナギの寝床。

だけど、虫食堂と思えば、がぜん意味が見いだせる。

このうっそうとした木の並びも、頼もしく思えてくるよ。

 

     玄関ドアに棒のような物体… 尺取り虫ですね。

お寺の庭で

お寺のお庭にちょっとはまってます。

喧騒を離れ、こころ静かに過ごせるところ。

お座敷に座り、お庭をぼおっと眺める時間がいい。

 

京都の詩仙堂と圓光寺を訪ねました。

       詩仙堂の庭園

うだるような暑さの中、坂を上って、やれやれとたどり着いた此処は別天地。

お座敷でくつろいでいると、ひんやりと気持ちよい風が吹き抜けていく。

鹿威しの、胸をすくようなカーンという音。

木々がさわさわとゆれ、トンボやハナバチが思いのまま飛びまわっている。

自分は動かずして、動いているものを眺めるのは良いものですな……

 

      圓光寺 奔龍庭

雲海の天空を自在に奔る龍を石組みで表しているそうです。

確かに龍だ……

いつか銀の龍の背に乗ってみたい。

 

       圓光寺 十牛之庭

これまた長居をしたくなるお庭。

緑は濃く、鯉が泳ぐ池泉からカエルの声、頭上からは鳥の声。

 

庭の中央あたりに横たわる大きな石が存在感を放っている。

「ねえねえ、あの石、牛みたい」

「ほんとだ、牛みたい!」

娘と無邪気に話していた。

 

帰宅後パンフレットをみていたら、「十牛図」を題材にした庭園だとわかった。

あの石は、やはり牛を表していたのです。

以下パンフレットから引用。

「十牛図」に描かれた牛は、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしています。牧童が禅の悟りにいたるまでの道程であり、賢命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語です。

 

そういえば、河合隼雄さんの「ユング心理学と仏教」という本で「十牛図」を目にしたことがありました。

ピンときていれば、あのような間抜けな会話を披露することも無かったろうに……

あの場に居合わせた人々に失笑されたかも (;^ω^)

 

まあ、旅の恥はかき捨てということで。